《修羅の時代》を七倍楽しむ法

(しゅらのきせつ)

治承四年六月、京の六波羅界隈は戦乱の巷に似て、異常な煩雑さを醸していた。今の季節にすると七月初夏、京名物の暑い夏が到来し始める頃であった。
家財や大形の荷物が山のように、荷駄として馬車や牛車に積み込まれ、列をなしているのが見られた。
近畿一円から、膨大な数の馬匹や牛が集められたが、勿論そんな物では数が追い付かない。京の中心部を流れる河川では、多くの船や上流で組まれた筏を寄せ集めては、大量の輸送に充てていた。
街道の宿場では、事情の飲み込めない地方からの旅行者が、只不安げに旅籠の窓から見守っていた。
一般の旅行者は天下の一大行事の邪魔になるので、当面旅籠等に足留めを喰っていた。
「一体何事ですかい。」
「あれまあ、お客さんは御存知ない、遷都ですよ。」
「せんとう?」
「はい、京の都の大移動ですがな。」
「へぇ、此れがそうですかい。到頭始めましたかい。」
「えらい事ですなあ。」
「えらいなんて、もんじゃ有りません。困るんですよ、京中の食い物が無いんですよ今。」
客は相当深刻な表情で、「其れは困ったぞ。」
「たいそうお困りのご様子ですが、大変なのはお宅様だけじゃありませんぜ。」
「うん、仰せの通りじゃ。」
当時京の都には、食料だけでなく遷都計画に必要な牛馬の数や、人足、雑貨、新都建設の建材、簡易の宿舎等有りとあらゆる物が不足していた。
実際、京の民衆、いや賢き辺りから公家まで多くの人々が、たった一人の統治者の我が儘に、苦痛を飲んだのであった。
此処に王道と覇道の違いが如実に現れているが、誰もが此の僭越振りを窘められる者は居なかったのである。上も下も誠に大変な大忠臣振りであった。

「母上ーっ。」
「おや、迷子かい。いや、大変な御時世にまた、迷子になったものじゃ。此れはたいへんじゃ。童は名を何と申す。ん、父さんの名は何と申すかや。」
「こらっ、退け退け。六波羅様のお荷物じゃ、邪魔な奴は其の侭に踏み潰せ。」
直ぐ近くをお公家風の牛車が通って居たが、片輪が轍に嵌まってしまった。
「こら、そんな処に車を止めるんじゃない。」
役人がすっ飛んできた。
「これこれ、此の御車のお方を何方と心得るか。藤原の…。」
「六波羅様のお達しじゃ。」
けんもほろろの悪態に、牛車の使いは真っ青になった。すると御車の中より
「これこれ、もう良い。」平家ならでは全く話にならなかった。

秋も深まりゆく、ここ奥州牡鹿の里は見渡す限り実りの時節である。十重二十重と連なる山の尾根が紫色に澄み渡る頃、山あいに流れる北上の支流は穏やかに流れる。農家の縁側にはやがて訪れる冬の支度が、そろそろ始まるのが見て取れる。
「おおーい。来ましたぞーっ。」
河原の土手道を栗毛の騎馬が駆けてくる。騎乗の男は十七、八であろうか。端正な顔形はどことなく田舎育ちとは見えず、雅びた面持ちである。
土手の下から一群れの男達が、わらわらと寄ってくる。
「若殿来ましたぞ。」
「来たか、白雁が。」
『白雁』とは野性馬の群れを率いる、大将馬の事らしい。答えた声の主はこの一団の若き主であった。
例の野性馬の事が非常に関心が有るらしい。一団の輪の中心に興奮覚めやらぬ体で、僧形の大男と身振り手ぶりで話している。
「今度こそ旨くお仕留めなされい。主殿。」「白雁も仲々手強い奴じゃ。はははっ。」
明るい澄んだ日差しの中で、若い主の健康そうな笑顔が輝いていた。
「見えたぞ。」ふと野太い声の主を探すと、道端の灌木の上に仲間の一人が、遥か彼方を指刺して叫んでいるのが見える。
北上の原野を潤す川。それに添った荒野を、雑木の林の合間から、白い砂煙が立ち込めはじめる。
「ほう。あれが“ナガレ”か。」
砂煙がもうもうと近づいてくると、野性馬と分かるその群れの先頭を駆けて来る、灰色の斑点の白い若駒が駆けて来る。一倍勘が鋭く決して人間に隙を見せそうもない馬だ。
しっかりした四肢と良く張り詰めた胴、馬ながら知性を感じさせる眼の光は名馬の資質を備えている感がある。
白雁は激流がほとばしる様に、また雁の群れが天駆ける様に、地上に素晴しい曲線を描いた。突然一人の若者が
「いやっ」とばかりに飛び出した。
一本の矢が放たれた様に彼等の若き主人が、白雁目指して直走りに駆けた。
驚いた野性の群れは、一つの意思を持った生命の様に、優雅に外敵を避けた。
一転、そして二転「白雁」は落ち着いて野性馬の大将振りを果たした。馬上の主は軽くかわされると、突然灌木の林を抜け、群れの死角を衝いて追い抜くと遥か背後を周り、そして反対側から又群れの先頭に飛び込んだ。
“ナガレ”の強力な支配者「白雁」は、やり過ごした筈の人間と突然の鉢合わせに思わず、ぎょっとしたらしい。
「ひひ〜ん」と後足で竿立ちになり、
(こいつはまずい。)とばかりに引き返しはじめた。
周囲の馬達は驚き蜘蛛の子を散らした様に、ばらばらと逃げ出した。回りには一頭の馬も無く、とり残された「白雁」と若者の勝負となった。若者は自分の手腕の発揮場所を自然にわきまえている。
荒野の中を右に左に、追つ追われつしていた。しかし長丁場になっては若者の不利である。乗っている馬の気力の抜ける前の一瞬、二者が近づいた。その隙に、馬上高く立ち上がった若者は
「それっと」とばかりに「白雁」の胴体に飛びついた。
再び「白雁」は初体験の恐怖に飛び上がった。こうなっては一頭の野性馬に戻るしかない。
やがて暫くすると「白雁」は勝負どころか、逃避をも諦めざる負えなくなったのだろう。
鋼の様な若者の四肢にしっかりと組つかれて、もう払落とすことも出来ずにうなだれてしまった。
武人と名馬との出会いは中々得難いものであり、良馬に巡り会う幸福は他に代えられぬ喜びであった。名剣名刀も然り、それらを求める機会を厭わない事が武人のたしなみの一つであろうか。
しかし野性馬を直に射止めて愛馬とする奇人、いや貴人は少なくとも当時義経位であったろう。
「ひょ〜い」「うおー」
何とも獣じみた奇声と喝采に迎えられた義経であるが、帰途の馬上では得意話しに満面であったとか、想像するだに可笑しくも清々しい秋の日の座興であった。
遠く栗駒山から涼しい風が、ひょうと吹き付けて、汗にまみれた肌に心地良い。ふと見上げると夕暮れの白い月が、優しく主従を見下ろしていた。

夜露がしんと音もなく降りて来る。白く深い朝もやが無限に立ち込める中、突然烏が深い眠りを引き覚ます。
ほっと吐息を漏らし、戸の隙間から差し込む朝の薄明りを、弁慶は凝視していた。
さっと寝床を跳ね退け、隣に眠る主の部屋の戸口に控えると、引き戸はもう既に開いていた。
おお、もうお目覚めか。庭先に出て見ると、主は庭の踏石に立ち、一角をじっと見つめていた。
「如何なされた。」
気掛かりのまま、声をかける弁慶に。
「弁慶。」「はっ。」
「兄上は、つつがなくござろうか。」
「おお。御兄君様にござれば、きっと殿に劣らぬ立派なご家来衆が沢山居って、うん。きっとお健やかなれば…。」
「だまれっ。」
「先程、兄上の夢を見た。そうじゃ、確かに兄上じゃった。暗い中に兄上が一人で泣いて居られた。」
すると年長の弁慶は、
「若殿。殿程の御方がつまらぬ夢など、何の、お気に召されるか。」
未だ未だ少年の面持ちの主人だがやがて、きりりとした決意の程と弱気を恥た様子が見て取れた。義経は気を取り直すと、
「そうじゃな、兄上は三国一の弓取りじゃ。」如才無い弁慶は、
「殿。時に面白い話しが一つ…。」
忽ち機嫌を直した主は、
「何じゃ。云うて見よ。」
「殿は昨日奥州一の名馬を手に入れられた。」「うん。」
何事かと、その瞳は期待に溢れていた。
「次は奥州一の大鬼を生け捕り、家来にされてはと。」
「はっはっは。それは傑作じゃ。弁慶にはかなわん。それは楽しみが増えた。」
家来の佐藤政勝がやって来た。
「弁慶そ奴はそんな剛の者か。」
「近畿一円を恐れさせた赤鬼弁慶が申す程じゃ、きっと強いんじゃろう。相撲か、酒か。」
「殿、拙僧も仏弟子の端くれ。」
「まあ、般若湯は薬酒よのう。そうじゃ、そうじゃ健康第一じゃ。」
「お戯れをはははっ。」
「で、その鬼の肌色は白か赤か。」
「幡色なれば青鬼殿は白幡でござる」
「そうか、上々じゃ。」
「御意に。」
源氏の旗は勿論白である。白肌と白幡を掛けた訳である。こんな鄙びた土地でも平氏の諜報の手は侮れない訳である。
「殿。もう直、朝飯にござる。拙僧は出立つのご用金の為、吉次殿と石巻でお会い致します。ついでの事に、鬼をひっ捕えに暫時。」「分かった。吉次殿へ宜しく申し伝えよ。」
「はっ。では失礼を。」

陸前の北に石巻という郷がある。古より内陸米の陸揚げや豊かな海の幸に恵まれ、特に牡鹿半島の外れの鮎川まで行くと、鯨の水揚げも行われて居ると云う。
土地の者には云い古されている例え話しに、
『石巻では、箒と塵取りが有れば暮らせる。』と云うのがある。
詳しくは此処では書かない。興味が有れば、土地の者に聞かれたい。
この地方は広々とした、仙台平野の北東部に当り、町の中央部に小高い城跡が有る。
日和山と云い葛西氏の居城が有ったとかで展望の雄大さが有名であり、地元では唄にも唄われている桜の名所である。
左手には牡鹿半島が見え、前方には太平洋が広がる。背後には栗駒連峰、蔵王連峰、右手に遠く松島の島陰が続いている。山頂から下界を見下ろすと、穏やかな浦に海鴎の群れに似た小舟が無数に浮かんでいるのが見える。

「ザザーッ」と寄せては返す波音に弁慶は、思わず深く磯の香を吸い込んだ。弁慶は連れの安達重三と磯伝いを歩いていると、浜の老婆が木桶一杯の、何やら磯の獲物をさばいているのを見かけた。
「おい重三」「なんじゃ」
「あれは何だろう。」
「あ〜っ、弁慶殿はあれを御存知無い。」
「わしは西国の海育ち。漁師の家の生まれじゃ。あれが食い物と云う事は分かるが。そうじゃろう。」
「あれは“ほや”と申す立派な食い物じゃ。」
「なんじゃ、気色悪いのぉ。」
「ほら、皮を剥き終わった奴は奇麗なもんじゃろ。」
「お前さん達、食うてみるかい。」
すると潮風に枯れ切った白髪の老婆が、すっとんきょうな声に、愛敬のある顔で差し出した。
「ほう、是がそうか。えらく磯臭いのう。」「それが好い処よ。」
一口頬張る弁慶は、思わず。「これは、好い肴じゃ。」
「はははっ。」
遂に酒呑みの本音が出てしまった。急に酒が恋しくなったらしい。
「今夜の泊りは吉次殿の隠れ宿じゃ。出るかいのう。」
すかさず重三が「化け物がかい。」
「カッハハ重三奴も人が悪いの。」
「ほーやっ。弁慶の本に呑み助じゃ。」
二人は戯れ合いながら大門崎の方へ向かった。半時もすると牧山への入口に差し掛かった。
ここからは延々と登り坂である。一気に登る山は、きついものである。弁慶といえど、しっとりと大汗をかいてしまう。
杉木立の合間から海が見え、爽やかな風が吹き抜ける。
「好い眺めよのう。」
生まれ育った田舎を思い出して居るのかも知れない。時々間の抜けた烏の声や、重苦しい山鳥の声が聞こえる。「吉次殿は陸前で黄金も、たんまり溜め込んだそうな。」
「しっ。黄金の事に我々は余り詮索せんのが良い。」弁慶が云った。
「しかし有難いことではある。若殿の出立つに大変な後ろ楯があるものよ。」
「あのお方は先代の殿に仕えておっての、殿亡き後に武士を辞められたが、この乱世故、若殿の技量に期待を賭けておわすのじゃ。」
「鎌倉の大殿はどうであろうか。」
「あのお方は中々見識がお高い。武人の当主として兄殿の力量は非常に高い。
しかし我々の御大将としては切れ者過ぎる。皆々の期待としては弟君の方へ、なびく事は成り行きとして仕様が無い。人は大概のところ力より情に惚れるものよ。」
秋の陽は釣瓶落としとか。すっかり暗くなった山中の、木立の間に石巻の町家の灯りが蛍火の様に無数に見えてきた。
「ご免下され。」
吉次のかくれ宿は山中の“庵”であった。
“庵”と云っても宿房もあり、客の七〜八人は泊れる事が出来る程の山寺である。
「おお、弁慶殿か。若君はつつが無くおいでですかな。」
「お陰様をもちまして、お健やかにお暮らししてござれば…。」
「そうか、そうか。」
「まあ、ごゆるりといたせい。」
吉次は先に立って案内をした。玄関をぬけ庵の主に挨拶もそこそこに、弁慶達は奥の離れに案内をされた。
さすがに庵と云う事で、大っぴらの酒宴は遠慮しようという吉次の心使いである。
八帖程の質素な部屋に通されると、弁慶は思わず
「例のものでござるな。」
「然り、例のものでござる。」
「酒呑み弁慶殿が、ご執心だと聞いての。」
「えっ、何と素早い。地獄耳の吉次殿ですな。」
「それを申すなら早耳の吉次と云って欲しいもんですな。」
「本当だ。ははっは。」
「昼頃浜で弁慶殿が食したいと申しておったと聞いての。」
「辱い。では、遠慮無く頂く事に…。」“ほや”を二口放り込むが早いか。
「はぁ〜。こりゃ、思った通り般若湯に合い申す。」「喜んで頂いて私も嬉しい。」
「時に殿のお発ちは。」
「そう年明け頃ですかな。」
「吉次も殿の御旗揚げには相当気を入れて、ご準備承りますとお伝え頂きたい。」弁慶が突然真顔になり、
「時にあの青鬼殿は如何致しておられるかな。」
「弁慶殿のご威光に恐れをなして、近頃はとんと出て来られん。」
思わず一同大笑いをした。
「冗談でござる、時折山から降りて来もうす。」
「青鬼どのは漁の盛りで、港が賑わう晩によく、出て来ますな。恐ろしく強い。やはり鬼は鬼故。」
「どうしたら会えるじゃろ。」
「はははっ。やはり若殿に申し上げましたな。」
「わしも豪傑好きよ、しかし強過ぎる奴と矢鱈に戦場では、かち会いたく無いものよ。」「弁慶殿も大分、弱気になられたか。」
「いいや、とんでも無い。疲れるだけじゃ。無駄な争いより、そいつが手中の駒ともなれば、もう我が陣中の宝じゃ。」
突然表が騒がしくなった。
「何事じゃ。」若衆の一人が出てきた。
「はい、今表で見かけぬ者がうろうろ致して居りました故、問い質した処。旅人が不慣れな山中で道に迷ったそうな。」
「こちらの素性は大丈夫であろうな。」
「それは些かもお気づかいご無用。」
「そうか、よしなに。」
「ご覧の様に、最近ではここ陸前の僻地へも怪しげな者が出入りし居る様でございます。」
「若殿の泰平への願い。そして鎌倉殿への主上の御期待を、平家方の悪辣な陰謀から守護せねばなるまい。」
「それはそれとして。青鬼殿の生け捕り。」
「明日の晩にでも若い衆に案内させましょう。」「うん、お願いつかまつる。」
「今夜は弁慶殿の破戒次いでに四つ足でもご馳走致しますかな。」
「破戒とは人聞きの悪い。そもそもですな、拙僧の持論では有りますが。」
「ほら、弁慶殿は弓矢も上手、詭弁も上手。」
「黙らっしゃい。」
少々赤い顔になってきた弁慶が、
「拙僧も生き物、肴も生き物、四つ足の猪も同類。一つ兄弟じゃ。
その同根の“いのち”が拙僧の“いのち”と一体となって、世の為、忠義の為、大きな働きを成す。
もう一つの“いのち”が、わしの腹の中で貢献致すのじゃ。
拙僧が武道、仏道に精進すれば、奴らの“いのち”も無駄には成らん。猪の“いのち”も成仏すると云う訳じゃ。
この世は輪廻。回り回りて出来ておるのじゃ。」
「あっはは。出たな大きく。」
当然の如くの表情で頬張る弁慶であった。
「御意、もっともじゃ。ささ、もちっと召されよ。」「おおっ、辱い。」
「弁慶殿には一杯精をつけて、殿の御為一働きも、二働きもして貰わにゃならん。これからは猪汁が旨い季節じゃ。体も温まるし、精も付く。」
この鄙びた庵には珍しい盛り上がりだった。

弁慶は吉次から若殿出立つの為、軍資金を預かり、予て約束した十五名の屈強の男達と待ち合わせると、三つの組に分け、目立たぬ身なりをさせて搬送の役目を命じた。
男達を送り出した弁慶、日中は街中を見物しながら夜を待った。
街の中でも歓楽街は陽も暮れる前から賑わっている。鄙びた田舎街だが、更に奥の村々から、米を含めた作物、水揚げされた魚介類を含めた様々な商品を売り買いする商人や、一日漁場で働いた漁師、船頭等が日々の疲れを癒しに集まって来る。
あちこちの呑屋から、だみ声の混じった笑い声や、ざわめきが魚を焼く匂いと共に外へもれてくる。
「おーい、三次。今日の獲物は大したもんじゃそうな。」
「うるせーっ。なあ、あんな雑魚ばっかりじゃ、俺達もおまんまの食いあげよ。」
「俺はよーっ。鰯をいっぺー揚げたぜ。よっ、馬どのは今の季節は秋刀魚が専門よな。」
「これからが最高よっ。」漁師仲間が入口付近で語っていれば、米や雑貨品を運ぶ荷駄舟の船頭も奥の囲炉裏で宴を張っている。
その内に何かの弾みで、漁師仲間と船頭の組で諍いが始まる。いつもの事で、良く有る単純な喧嘩騒ぎであった。
「やっちまえー。」「うおーっ。」騒動が始まったと思うと、店の外で数人のどやどや駆け去る足音がした。
路地で別の騒ぎが起きてるらしい。二人の若者が船頭風の荒くれ七、八人組に因縁を吹きかけられて居るらしい。さんざん追い回され、なぶり物にされていると突然。
「喧しい。」
一軒の店から人影が、ぬっと現われた。
「なんじゃ、おまえは。」「すっこんでいろ。」
「折角楽しんで居るのに喧しくて叶わん。」
荒くれの一人が「お前にゃ関係ねーだろ。」逆に矛先が変わって来たかと思うと。中の一人が気付いたらしく。
「ちょっとまずいぞ。」頻りに仲間の裾を引いている。
「まずいっ鬼だぞ。」
とその耳打ちに、相手は急に顔色を変えはじめた。一瞬緊張した空気が張りつめた。
「やろうっ」荒くれ達は逃げ出したが、狭い路地の退路を何時の間にか別の大男が塞いでいた。
僧形の大男は中々通してくれない。荒くれ八人と青鬼の戦いが始まった。さて青鬼は、立ち向かう髭面の大男をなぎ倒し、背後から羽交い締めをする男を、後ろ向きに蹴り上げて、それはもう三面六臂の活躍振りであった。やがて叶わぬと見た荒くれ共は、脱兎のように逃げ去った。
「いやー、強い。」
流石の弁慶も唸った。青鬼は赤鬼に黙礼をすると、スタスタと去って行った。
しかし赤鬼が後から執拗に追いて来るのが気になった。やがて地元では羽黒山と呼ばれる小さな社の前に着いた。
突然青鬼は歩きを止めた。空には白い半月が昇って梢の間から二匹の鬼を見下ろしている。青鬼はじりっと踵を返すと。
「何のご用か。」
「奥州の青鬼殿は、肌色が白いとか。」
一瞬、狐に摘まれた様な青鬼の顔は、やがて判ったとばかりに、可笑しげに笑った。
「かっ、ははは。」
「鬼狩りでござるか。」「左様。」じっと二匹の鬼は、見つめ合った。
身動きもせずに半時も経ったであろうか。目覚めた烏がバサバサッとはばたいた。
「ムー。」「フー。」互いに深くため息を吐いた。
「奥州の青鬼は白いが青くはない。」
「はっはっは。存じて居りまする。先ず私から名乗ろう。失礼つかまつった。拙僧の名は武蔵坊弁慶。」
「ん、聞き覚えが有るぞ。」にたっと笑う弁慶。
「知っているぞ。平氏ではないが、相当な悪鬼だそうな。」
「貴殿程ではござるまい。」
双方共ここで真面目な顔つきに成ると「何を隠そう拙僧偽り無く申す。我が主人は、先の源家の御大将義朝公の忘れ形見、源九郎義経様。弁慶は一の家来でござる。仔細は後程として。」
弁慶は鋭い表情で周囲を見渡した。
「今宵は月も風情が有り申すな。」と弁慶は腰から徳利を外した。
「肴は無いが、一献差し上げたい。」どっかと切り株に腰を掛けた。
「ほう。辱い。」「じつは、この地で広く商をしている、さるお方」
「吉次殿か。」
「おう、ご存じで。」「いや、面識はござらん。」「あのお方に鬼。いや、逸材がござるとお聞きしての。」
「いや、それは光栄ですな。」
「それで……。」
「私がこの地にくすぶって居るのは、己の志が定まっておらんからでござる。」
「今の乱世、確かに源平きら星の武者が居ざろう。しかし己が主と定める人物が又、居らん。いや、判らんのじゃ。」
悲痛な嘆きを漏らした。
「人の噂に源氏の若殿の事は聞いたが、どんな方やら。まして、田舎の鬼侍を推挙する変わり者も、居る筈もござらん。
曲がった事は嫌いなもので、退屈凌ぎに田舎街のドブさらいをしていたまででござる。」
「しかし、青鬼殿、我が主どのに召し抱えられたとして、その人物はご存じあるまい。」
ここで青鬼は、にんまりと笑った。
「青鬼は赤鬼と組とうなった。鬼の主は、鬼であろう。きっと。ははははっ。」
「ははっ。違い無い本当にそうじゃ。」

緑の馬場に荒馬を巧みに操る若者がいた。強情な馬と天才的な乗り手は、互いに激しく競り合っている。遠く柵に繋がれた馬達も興味深げに見つめている。
「殿の稽古は馬共も興味があるらしい。はははっ。」
馬丁達も、滅多に見られない見物に仕事もそこそこに、人垣を作っている。
「おうっ、仕事仕事。皆いいか。これは見世物ではない。自分の持ち場に戻る様に。」
呆れ果てた佐々木秀元が改めて指図をする。ここは平泉藤原秀衡の別邸の一つ。
向かいに岩手山がそびえ、目前にせまる豊かな台地である。近くを北上が流れ、田畑を潤している美しい田園風景が広がる。
この邸宅は秀衡の夏用の別邸であったが、今は源氏の御曹司の仮住まいとして、使用されている。
秀衡に天性を愛され、吉次に次代を担う力量の人物として期待され、義経は今一番の青春を謳歌しているであろうか。
「ようし、今日は仕舞いじゃ。」佐々木秀元が屋敷内から出てきて、
「殿如何でござりますか。白雁の具合は。」
「うん、やっと気を許してくれた。どっちが主人か、やっと納得したんだろう。」
「それは良うございました。それで殿、石巻より客がありまして。」
「ほう、誰じゃ。」
「弁慶が連れて参って…。何でも青鬼とか弁慶殿が。」
「そうか、参ったか。そうか、合うぞ。」
「はっ、こちらへ。」別邸の母屋は広かった。
間もなく屋敷の広間で、この若い主人は珍客を待った。
「まだか、青鬼は。」展望の良い広い庭先の戸を開け放すと、外には十数名の若者が畏まっていた。
「殿、鬼でござる。」
「ははははっ、皆面を上げて良い。」中でも一際大がらで、七尺に余りある赤ら顔の大男がいた。
「小鬼も、連れて参ったか。」
「はっ、大場政太郎にございます。」
「青鬼めは、白肌とか聞いた。」
「はっ、私めは、先祖代々源氏に加勢をしております。父は…。」
「そなたの事で良い。何が得手か。」
「二元流柔術でございます。」
「如何なるものか、見せよ。」大場某は小鬼二〜三人相手に早速格闘術を披露しはじめた。
「む、強いのう、さすが青鬼じゃ。で酒はどうじゃ。」
すかさず弁慶は、
「拙僧の上を行く者はござらん。」
「はっはっはっは。そうじゃろうな。」
「早々に、わしの配下として仕えよ。」
「はっ。」
「之からは生死を賭けた乱戦に成るやも知れんぞ。」
「覚悟の上にござります。」
「酒をとらそう。酒を持て。」主従固めの杯である。義経主従いよいよ、鎌倉方面へ向かう準備が始まった。

牡鹿半島は太平洋に大きく突き出し親潮、黒潮に洗われる海の幸に恵まれた景勝地である。
半島の根元辺りに大きく広がっている内海が万石浦である。
西国の瀬戸内を彷彿とさせる、波の静かな風土である。
半島の先端には「鮎川」と云う浜があり、鯨が押し寄せると云うので古来より、紀州、房総と並んで捕鯨が有名である。
温かい陽光が降り注ぎ、沖の方まで「きらら」を振り撒いた様に輝いている。
内海の小さく打ち返す波打ち際を、七名の男達が歩いて行く。何と云っても大男の弁慶は、人目でその人と知れる。
何の用向きか万石浦の渡波付近を、半島目指して歩いている。道沿いに牡蠣殻や、漁具が渦高く積み上げられている。
砂地を歩くと足の下に踏みしだく、乾いた音が心地よい。
時折、漁網の繕いに精を出す老いた漁師達が、一行を何者かと眺めている。
この鄙びた村を七〜八名程の一行が、通るだけで奇異に映るらしい。
不安気な若松左衛門を弁慶が「気にせんで良い。この辺りも吉次殿の配下だそうな。何事も心配無用。」
ひんやりとした並木の下を通り、急な坂道を昇り切る。見晴らしの良い小さな草地が広がっている。
「少々休もう。」
「弁慶。」大きな石に腰を下ろすと義経は、
「用と云う程の事でも無いが、弁慶は鮎川に楽しみが有るそうな。」
弁慶は少々驚いた風で、「おお、誰ぞにお聞きで。はい、楽しみが有ります。私はご存知の通り、紀州の小さな漁師町の生まれで丁度、鮎川と同じ名物が有ります。」
「うむ、名物と云い、鮎川ともなれば、当然鯨かな。」
「御意、仰せの通りで。吉次殿の取りなしで、鯨捕りに同行致したく。」
「弁慶、この度の鮎川行きは遊びでは無いぞ。」義経の厳しい一言に、ぎくりとした弁慶で有る。
「ま、しかし鯨捕りの家に生まれたそなたじゃ、今後又と無い機会じゃ、行って見よ。」
「ははっ、申し訳ござりませぬ。」
半島の尾根道を歩き、峠を越えると漸く鮎川の汐見の小屋に着いた。
小柄な名主とおぼしき老人が、一行を待ち受けていた。
「若殿さま、よういらした。手前はここの名主で、徳衛門と申す者でござります。吉次殿より命をお受け致してござります。」
「そうか、それでは一切お任せ致そう。」
「ははっ、代々我が家の名誉にござります。」
一行は小屋から小道の薄を掻き分け、下へと降って行った。
途中の道沿いは、栗、あけび等の果実が実っていた。
大男の弁慶もすっぽり隠れる程に背が高く薄が育っている。薮の間から明るい浜辺の家々が望める。
一行は更に小道を降り、名主の館の門を潜った。村は館を中心に七十戸程の漁師小屋から成っていた。
此処では一般の漁業の他に鯨漁が盛んである。
一行は客間に通された。義経は汗を流し、着衣を改めて、名主より挨拶をうけた。
「手前共は阿部徳衛門と申し、先代より源氏方の御加勢をさせて頂いて居ります。今は鯨捕りに精を出している毎日でございますが、日々牡鹿の水軍として、銛撃ち、弓矢等、田舎武者の成れの果てと申せど、何時か源氏の旗揚げの時はと、夢見る事久しい毎日でした。老いたる我が身なれど、御殿の出立つの為、軍船を大小御用意致しました。
尚不肖なれど、次男の清成を、御大将の御側にお置き頂ければ、家門の誉であると存じます。」
「先祖の名に賭けて存分の働きを致す事と存じ申し上げます。」
「相判った。清成とな、我が配下に仕えよ。」
「ははっ、有難き幸せに存じます。」
しばらくは今後の義経軍に関わる、鎌倉方面での行動の仮定談義に華がさいた。
「其れでは若殿、御家来衆の皆様。田舎料理ではございますが、存分にお召し上がり下さいませ。」
「おおっ、こりゃ懐かしい鯨料理よのう。」
久しぶりの珍味に、大喜びの弁慶である。
「さあ、精が付くぞ、そなたも召し上がれい。」宴が盛り上がると、隣の仕切りがそっと開かれた。
そこには粗末ではあるが、俄仕立ての楽士達が居ずまいを正して控えていた。
中央にはこ奇麗な衣装をまとった娘が、一人舞楽の始まりの合図を静かに待っていた。
やがて謡が始まり其れに合わせて、管弦の調べが始まる。少し小首を傾げた娘の舞いは、粗野ではあるが人の心を、しんみりとさせた。
「孫娘にございます。」
「鄙にも稀な、でございますな。」誰かがぽつりと云った。娘の表情に悲しそうな色が漂っていた。
「如何が致した。」
義経がそれとなく尋ねた。「不憫にござります。童女の頃より口が利けないのでござります。」
娘は一差し舞うと一言も申さずに、こくりと礼をして下がった。「さあ、しんみりした処で、無粋じゃが男踊りでござる。」
一座のひょうきん者が、気を利かして舞い始めた。
「鯨おどりを知らないか。」
「あっはっはっは。本当かよ。」
「あ奴も道化よのう。」漸く明るく賑わって、海辺の酒宴の宵も更けていった。

「おーい、鯨だぞ。」
「何の鯨かの。」見張りの番小屋から木鐸を打つ音が響いた。
二日酔の弁慶が取るもの取り合えず、小屋までふらふらになって駆け上がった。
「どうれ、どうれ」顔を紅くして息の乱れた弁経が小屋まで這上がると、こんもりと繁った林を背後に三方が黄金色に輝いていた。
「うむ、見事じゃ」
目の前に大きく広がる大展望は、さながら仏国土を彷彿とさせる眺めであった。
沖合いの中ほどを見ると、
「おお、見えるわ、見えるは。汐吹きがのう。懐かしいものじゃ。」
目を細めて感慨に更ける弁慶であった。
「わしも若い時分は鯨のモリ撃ちに憧れてのう。」
若者の三次が興味深げに、「あんな生き物が本当に捕れるんですかい。弁慶殿。」
「人間に不可能な事は無い。」
「ふーん。で弁慶殿、今は鯨捕りはやりたく無いのかい。」
「修羅じゃ。殺生はもう飽きた。」
「でも弁慶殿は薙刃の名手じゃ。」
「戦場の修羅は天下の為。み仏も許して下さるじゃろ。」若者には未だ納得行かない様である。
遠い沖合いを悠々回遊する巨大魚達にとって、今戦慄の時がやって来る。
足元の遥か下から「ウォー」っと云う雄叫びが沸き上がった。と思うと八丁櫓の鯨舟が六艘沖目指して、矢の飛ぶ様に進んで行く。
弁慶は一つ大きなため息をすると、何も見ずに坂を降って行った。
残された若い衆は、荘厳とも云える巨大魚と人の格闘を存分に楽しんだ。
人間に目星を付けられた雄の鯨は、突然波間から消え去った。ゴンゴンと船端を叩く音が、周囲に響き渡った。どれほど経ったのであろうか。小舟の群れより更に沖合い辺りの、水面がぐんぐんと盛り上がった。
暫くすると、水面の裂け目から、「ブオーッ。」と火山の噴火の様に白い雲が吹き上がった。鯨の息継ぎだ。
「ウォーッ」小舟の群れはじりじりと怪物を取り囲む。舳先に取り付いたモリ撃ちが、褌一つで立ち上がった。
赤銅の仁王像の様に鍛え上げられた、筋肉美が大きく狙いを定めると、一瞬石の様に身動きを止めた。
「イエィッ。」言葉にならぬ気合いと共に、モリ撃ちの体が飛翔した。
ビュッ、と唸りを上げてモリは鯨の急所を射た。鯨が余り苦しまない様に二、三本のモリで仕留める掟だ。鯨は水面でもんどうり打って果てた。
人間達は熟れた西瓜に蟻が群がる様に、ある者は巨大な鯨の上に昇り、又綱を架けて岸へ引いて行く。
大漁に湧いた浜では、太鼓で漁師達を迎えた。浜の小高い岩の上で、義経もこの珍しい戦いの一部始終を観ていた。
「見事なものじゃ。」
後に平家と船戦が展開されるが、世に謡われる程の名将振りは、この時のインスピレーションによるものなのか。
中空を睨みながら頻りに頷く義経であった。
「殿、ご覧になりましたか。」
「うん、面白かった。まるで船戦じゃ。」
「修羅場じゃの。」
武術の天才児は、何を見てもその中に戦の駆け引きを、隙間見るのであろう。

浜は祭の様に賑わっていた。
鯨肉を求めて近在の村々から、相当の人だかりが出てきた。
「若殿、こんな所に居られましたか。」
「おお、吉次殿か。」
「今な、名物の鯨捕りを見て居ったのじゃ。」「中々面白いものでございましょう。」
「それはさておき吉次殿、準備は如何がであろう。」
「殿、少々急いて居りますな。
焦りは禁物ですぞ。明日夜、ご案内致しましょう。」
「判った。」
「今夜面白い余興を、お見せ致しましょう。」
「面白いと云うと。」
「見ての御楽しみと、申しておきましょうか。」
「あい、判った。」
宿舎の名主屋敷に帰ると、義経の今後の予定を、弁慶、吉次を挟み、幹部の武将達を集めて検討する事となった。

治承四年、高倉宮以仁王の令旨が諸国の源氏へ下り。後の青年義経が待ちに待った西進の旅が始まった。
黄瀬川の宿にて兄頼朝と感激の対面を果たす事になるが、其れまでの道程の中、平家の探索が、未だ厳しかったので、義経武士団の移動の手段は議論百出。結局吉次の妙案と云うべきか、神出鬼没の義経らしい行動に決定された。
その為に義経軍団輸送船の水夫等は吉次の豊富な資金と、人脈で賄った。
そしてこの十数日間をかけて、陸前近郊から源氏縁りの田舎武者が、この鮎川に集合する事となった。
総勢一五○名。少勢なるが血気盛んな男共が、この時とばかりに立ち上がった。
此の時鯨捕りの浜では、夜になると郷内の広場に、かがり火が灯された。
パチパチはじける灯りに照らされた中央には、主賓の客人が招かれ、左右の垣根を前に大勢の見物人が溢れていた。
「それでは名物のモリ撃ち競べを執り行います。」
元、郷一番のモリ撃ち名人が、総勢三十人のモリ撃ち達を前に、社の前で奉納試合の開始を宣言した。
「これが例の余興か。」
義経が云った。
「御意にございます。」
「皆々頼もしいのう。」
「今日の日を皆、楽しみにして居りました。」
「そうか。」
仕切り線から三○歩余り先に、三つの的が用意されていた。
「一番モリは岬の平太。」
「うお〜っ。」
大歓声が巻き起こった。
「ビュッ」と野太い唸りと共にモリが飛んだ。
公平を期し一人三回。続々と逞しい海の男達の挑戦が続いた。
五人目の漁師、六平衛が一番優秀なモリ撃ちで、三つの的を見事に打抜いていた。
「さあさ、飛び入り結構。我こそと思わん者は居ないかえ。」
進行役の白髪の老人の一声に四人の男が名乗りを挙げた。
何れも六尺に及ぶ大丈夫だ。
勿論、我が弁慶も血が騒いだのであろう。
主人義経の快い許しを得て、三人目の挑戦となった。
いよいよ最大の盛り上がりに会場は、しいんと静まり返った。
「ビューッ」モリは唸りを挙げて、ぶーんと空を切り、
「ウウオーッ。」
見事に三つの的を射た。
勝利は六平衛と弁慶が分け合った。
「弁慶、見事。あっぱれであった。」
「お恥ずかしい。汗顔の至りでございます。」
「いや、そなたの精進。何れ役立つ事であろう。」
「そのお言葉、有難き幸せに存じます。」
「若殿もいや、実に懐が深い。」
自分のこだわりを、気持ちよく理解してくれた主人、義経を弁慶は有難く思った。
「この技競べ、単なる力技とは違う。心身共に精進あったればこそであろう。」
人々は興奮の余韻を残して、散って行った。

昼間の騒ぎの後、浜では普段より早々に静まり返って行った。
その夜、宿舎で早めに部屋へ下がる弁慶は、渡り廊下の端でそっと合図をする男に気付いた。
屋敷の外に出て、月灯りの下で確かめると、先程のモリ撃ち老人の息子らしい。
「如何が致した。」
「弁慶殿に、一つお願いの義がござる。」
「はて。何事か。」
二人は連れだって、裏道を通ると浜辺へ出た。
「はっはっはっは。」
男は照れ臭そうに笑った。
「お恥ずかしい事でござる。」
「何事でござるか。」
「私に妹が一人ござる。」
二○歳を越え、未だ一人身で老父も思案に暮れて居ったが、仲々行き先が決まらん。」
「それがどう云う事で」
少々きまりが悪くなってきた弁慶であった。
「妹の名は『ひらぎく』と申します。先日弁慶殿を見かけて、以来大そう…その。恋焦がれてまして。
貴僧の仏弟子としてのお立場も、有り申すが、お角違いは、承知の上一度で結構でござる。妹の胸の内を聞いて下さらんでしょうか。」
「……。」
「如何がでござろう。」
「……。」
「只、気持ちだけでも、お伝え出きぬかと…。」
黙りこくっていた弁慶が
「お察し申す。」
「私は仏門に入った身ですが、仏徒として、其のお方の気持ちは、お受け申す。」
「では一時だけで結構。会って下され。」
心を決め、覚悟をした弁慶は、男にしたがって浜の外れの岩陰に歩いて行った。
「では私は、暫く下がって居ります。」
男は弁慶を案内すると行ってしまった。

浜辺には妹の「ひらぎく」が一人下を向いて佇んで居た。
そっと近ずく弁慶は、石化した様に棒立ちになってしまった。
月光のみが、煌々と輝く夜二人は、暫く長い間無言でいた。
浜風が二人の間を吹き抜けて行った。
どれだけの時間が経っただろうか。
弁慶の胸中を様々な思いが、洪水の様に流れて胸が高鳴った。
あれ程の豪の者が、一寸も身動きが取れないでいた。
そんな時、
「弁慶殿。」
「……。」
「貴方様をお見かけしたのは、つい先日。未だ余りにも短い出会いです。」
「貴方様は何れ近い内に、お殿様と遠国へ旅立たれる御身。増してや御仏に仕えるお方。」
「そうです。私は罪深い女です。そんな貴方様に思いを寄せてしまいました。
私は多くは望みません。この長い人生の中で、たった一晩、貴方様のお近くに居て、同じ空気を吸う一時が、私の唯一の望みです。
貴方様は、お殿様の尊い御使命に、共に行かれる方。勝手で申し訳有りませんが、私には自分の生きた証が欲しかったのです。
はかない陽炎の様な女の、たった一つの哀れな望みを叶えて下さいませんでしょうか。」
「うむ。ひらぎく殿と申されたか。」
「はい。」
娘は消え入る様な声に、真っ赤な顔で答えた。
何の因果でこんな事になってしまったのか。
「ま、此れも御仏の縁と申せましょう。
貴女様の事、この弁慶に思いを下さった事、決して忘れまい。こちらへお顔をお見せ下され。うーむ。美しい。如来様の様だ。」
「ホホ、夜とは申せ、余り見つめられると恥ずかしくて、息も絶えそうです。」
ひらぎくは、月明りの中二人切りの逢瀬に、只嬉しくて涙が溢れるだけでした。
こんな時、一体何を語れよう。未来へ託すも不可。
只この女性の今後の幸せのみ念ずる弁慶であった。
波打ち際は、月明りに蛍光色に淡く光っては、寄せて返した。
二人には永劫の月日が過ぎた気がした。
やがて東の空が、ぽっと明るくなってきたのが判る。
ひらぎくの兄はとうとう、浜には戻って来なかった。
弁慶はそっと、ひらぎくの手を取って。
「もう、お帰りなされ。」
二人は紅潮した顔に朝日を受けて、思い出の浜を後にした。
朝の小鳥のさえずりが始まり、鴎がそろそろ飛びだした。
朝の空気にいつもの活気が出て来ると浜の一日が始まった。

長かった。永遠に終わりの無い時間に弁慶は感じられた。
昨夜はずっと起き通しの弁慶であったが、心身共に満ち足りた気がする。
宿舎へ帰ると義経の前に、いつも通りに出仕した。
「お早ようございます。」
「おおっ、弁慶か早いな。」
「わしは、夕べ良く眠った。そなたは、良く眠れたか。」
「ははっ、いつも通りで。」
「一寸、顔色が悪いようじゃが。夕べは喧しい弁慶のいびきが、全く聞こえなかった。」
「ははっ、ご勘弁を。」
「ふぁっ、はっは。」
「聞くには及ばん、わしは野暮は嫌いだ。」
「はっ。」
「時に殿、いよいよ今日は吉次殿お約束の…。」
「うん、旨く逃げたな。そうそう、今日はいよいよ、我々の舟を見に同道する。」
朝食を済ますと屋敷の裏の空き地に、義経の家来達、幹部三○名が集結した。
各分隊の総勢は十五の組に分け、近郊の浜や、一部は石巻方面の奥地へ分散して待機する手筈であった。
一同は裏の松林を抜け、半島独特の曲がりくねった坂道を歩き、時には薮道、笹原を縦断して目的地へ向かった。
此の日は主人の義経も徒歩である。
半島の山を崖沿いに大きく迂回して、半島の裏側へ回った。
と、其処には小舟が三艘舫っていた。
「此処からは舟でござる。」
三艘に分乗して男達は、沖へ漕ぎ出した。
更に海岸線に沿って迂回すると、絶壁に閉ざされた入り江が見えてきた。
桃之浦と云う、元々無人の浜であった。
入り江が其のまま崖下の、大きな洞の中に続いていた。
舟に乗ったままで中に漕ぎ入れて見ると、其処は自然の隠れた要塞であった。
深い入り江の中に侵入して見ると、其処には
五○名は乗れそうな俄仕立ての軍船が三隻もひっそりと出番を待って居た。
「うん、見事じゃ。良く出来ている。」
「ご満足頂けて光栄です。」
「間もなく出立つの日も近い。皆、体を愛えよ。」
「有難きお心使い。」
やがて一同は元の船泊まりに戻った。そして一同は又の日を約して、各々の潜伏先へ戻った。

いよいよ義経の遠征の時期は、近づきつつある。大事の前に、余り世間に目立つ振る舞いは禁物である。
常日頃人目に付きやすい義経は極力自重を心掛けていた。
今日この地方で、義経の足跡は殆ど見られない。
この地方を訪れて、見える物は優しい山並と、感じるものは温かい人情。時に優しく、時に厳しい栗駒降ろし位いであろう。
当面義経は出立つの準備が出来る迄の間、この半島近隣で過ごす事になる。
「殿、折角良い馬を手に入れたのに、手元に置けぬのは、誠に残念でございますな。」
「うむ。一度配下の者共と遠出して、此の道筋が安定してからかの。」
「馬の船旅は可愛そうでございます。」
「下手をすると折角陸奥の名馬を死なす事になる。」
「何れお早い内に連れて行けまする。御乗馬として。」
「そうじゃな。」
牡鹿の冬は暖流の黒潮の恩恵で、北国としては穏やかであるが、暮れの其の晩は木枯らしが厳しく、非常に良く冷えた。
その夜宿舎の戸を叩く者が居た。
「御免」
男の声がする。
「おおっ。三次殿か。」
「遅く申し訳ござらん。街道を抜けるのに、以外に手間取ってのう。」
「殿はもう、お休みでござるか。」
奥から弁慶の声がする。
「はい、ただ今。」
当直の者が奥へ引き下がって行った。
暫くして、
「殿はお目覚めでござる。」
弁慶が代わりに出てきた。
「殿の御気性じゃ、構わんとの事。」
「はっ、では遠慮無く参る。」
「おおっ、参ったか。気にせんで良い。西国の話しともなれば何に於いても第一じゃ。」
「まあ寒かろう。挨拶は又で良い。この辺りは栗駒降ろしが厳しくてのう。」
「おう、湯が湧いたぞう。今、湯づけを拵らえさせて居る」
「で、鎌倉殿はご壮健にござるか。」
「はっ、大殿様は都より令旨有るも、未だ動きませぬ。京では平家が都を離れるも、其れに替わる木曽殿ご采配が、殿上人と悉く折り合いが付かず、難儀を致して居りまする。とうとう役人、公家衆の首のすげ替えを行った事が禍し、最早木曽殿も朝敵の汚名を受けてしまった様で。」
変転浮き沈みは世の常である。

その夜は遅くまで上方や鎌倉の動静を確認し合った。
外では最前よりの「ゴーッ」と、すざましい木枯らしが山全体を揺るがしていた。
真っ暗な夜闇の中、何やら白い物が舞い降りて来る。
やがて野原一面に、薄紫の毛氈を敷き詰める。見渡す限り、白銀の世界が広がる。
はたと風が止むと小狐が三匹、飛び跳ねて、くるくる舞い踊る。中空からは金銀黄金の牡丹や、あられが、ゆったりと、又狂おしく舞い降りて来る。
いたずら小狐が何かを見つけて、駈け寄って見ると、朝日にぼうっと芽吹き始めた福寿草で有ろうか。
春の予感、生き物の季節がやって来た。
「おーい、善太郎」
遠く子供を呼ぶ声がする。
「雪じゃ、雪じゃ。」
「おめえ、そんなに雪が珍しいか。」
「い〜や。じゃが俺は雪が大好きじゃ。」
「他に何が好きじゃ。」
「雨が好き、風が好き、お天道様が好き。」
「ほーう、そうかい。」
「霰が好き、雷様が好きじゃ。」
「はーはっはっはっ。皆好きか」
「う〜ん、皆好きじゃ。」
話し声が近づいて来る。
近くを行き来する馬曳きと、その孫の話し声で義経は目を覚ました。
魚や野菜を、村々に商する年寄りらしい。
「はっはっはっ。」
老人と子供の話し声を聞いて、幼い頃を思い出していた。
「殿、お目覚めでございまするか。」
「おー少し寝過ごしたらしい。」
「さすがに春が近いと良く冷えますの。」
「何の、これしき。」
京の山々はもっと雪深い。
「比叡の山の寒さと云ったら、又格別でござる、あの雪深い山中で、随分と無茶な修行三昧。今考えますと随分又、思い込みが激しかった様で、汗顔の至りでございます。」
「処でこの長い雪の季節も終わり、最早猶予もならん事じゃ。
兄君も痺れを切らしてござろう。手筈は良いな。」
「ははっ、整っておりまする。我々一二将以下、総勢百五十名。三日後愈船出でございます。」
一の船「比叡」。二の船「三笠」。
三の船「東山」
武備、料食、水、燃料、軍資金、水夫、全て揃っております。」
「よし。」
「三日後、日の出に出発じゃ。」
「心が躍りまする。」
「其れでは官兵衛と共に指揮に当たれ。わしも間もなく善照殿に、挨拶をして参る。」

朝食後義経は張り詰めた冷気を、胸一杯に吸い、従者五名を引き連れて雄鹿半島奥にある、廃寺同様の善照寺に向かった。
北国と云っても雄鹿の里は、黒潮の影響で暖かく、降った雪も直に解け出す。
山道は、溶け始めた雪で、ぐっしょり水を含み、なかなか歩き難い。
石巻方面へ二里程小道を歩き、時に転びつつ、辿りついた。
「御免。」
小者が大きく呼んだ。
すると、あばら家の奥から物音がした。
「おうおう。」
「若殿、いよいよご出立つですか。」
「暫くよのう、爺。」
明るく甲高い義経の笑い声に、久々に華やぐ本堂であった。近畿の寺社に比べて、遥かに貧しく、荒廃したかの寺であるが、権力闘争等の色合い等、露程も感じさせない田舎の落ち着いた寺が、義経の好感を抱く理由である。
「あちらでも、こちらでも殿は良いのう。お仲間が沢山増えて。実に羨ましい。ははは。」
いつも屈託のない住職の笑顔である。
「善照殿も良いお弟子が沢山ござる。」
「まあ、そうじゃが若殿のお仲間とは、又中味が違う。」
「ところで御大将は、最近赤鬼ばかりか、青鬼も手に入れ、お味方でござるとか。」
「おう、そうよ。なかなか元気でのう。良く飲み、良く喰うわ。」
「良く喰うとは、人間をでござるか。」
「ああ、人間は喰わぬが、二匹共、良く人を喰っとるわ。」
「そいつは楽しい鬼共じゃ。」
「はっはっはっ。」
寺は大いに、賑わった。
「青鬼の話しは、こっちでも有名かの。」
「ほうれ、この本堂の仁王殿も元気が良くての。この通り毎日、悪鬼共を踏みつけて居る。殿、鬼と云っても赤鬼、青鬼仲々の働き手で、手柄を立てられようが、鬼と云うもの、その性は修羅が天性。ようく悪さをせぬ様、踏みつけておきなされ。」
「今の世の中、乱世ゆえ鬼も人に。人も鬼に変化しおる。故に人は鬼にならぬ様、鬼は人にその性が転化する様に、わしは祈る。若殿は武人ゆえ良く踏み付け、また救い上げる事じゃ。」
「爺様、鬼が本性か、それとも人が正体か。」
義経は一瞬はっとする程、厳しい眼をしていた。
善照はとろける様な笑顔を見せると、
「鬼は本来無。人も又無し。」
「何故。」喰い付く様な眼であった。
「はは、如来は人は創らぬ。邪悪な鬼も創らぬ。」
善照も真剣な顔に変わると、
「この世には仏しか居らん。とわしは観た。」
「あっはっは。」
義経は鋭い眼差しをして大笑した。
「なぜ、人はいる。鬼は居る。」
「居らぬ。」
「……。」
本堂の中は空気が張り詰めていたが、やがて義経の表情が和んで来た。
「さ、白湯でも召し上がれ。」
「そうじゃ。居らぬのじゃ。人も、鬼も。」
「眼に映る姿ばかりが、真実ではござらん。」
「その見えぬ仏の姿を見抜くのが、わしらの修行と云うものじゃ。」
「わしには見えぬ。」
「かまいやせん。」
「そう簡単に見えたら、わしら本物の坊主はいらん。商売上がったりじゃ。はははっ。」

本堂脇の小部屋で軽い昼食が始まった。
薪が時々パチパチ弾いている。
「ほう。雑炊か良い匂じゃ」
「若殿とも、又何時合えるか判らぬゆえ、少しばかりのご馳走でござる。」
「鮑に、牡蠣、青菜でござる。」
「腹の中にしみじみと、浸み込む旨さじゃ。」
義経は飯の振る舞いを受けながらも、
「鬼を踏み押さえ、又人を救い上げる…其れが、わしに出来ようか。」
「貴方なら出来る。」
「他の者は…。」
「……難しい事でございます。」
「兄者は…。」
「お会いした事はございませんが、あのお方は、そう、大鬼でしょうか。」
「わしは押し潰される。」
「そうでもなかろう。」
「その時は水に、おなりなされ。」
「水は熱鉄を冷やし、名刀を生む。汚れを清め、田畑を潤す。大河となり、大海に注ぐ。
多くの生き物を、内包する。はっはっは、そして力まない。」
物思いに耽るのは、青年義経であった。

昼過ぎに寺を出て宿舎への帰途、今朝方通った道が、大分乾いていた、さすがに峠道の風は冷たく、半島の尾根道を伝う細い道は吹き曝しが厳しかった。
遠く夕闇に浮かぶ月が寒々しい。
薄暗がりに浮かぶ漁師町の明りが、ちらちらと見て取れる。
「寒うございますな。」
小者達の言葉に
「ああ。」
と気の無い返事の義経は、先ほどの善照の言葉が心に残っているのであろう。

紅い太陽が西に傾き始めた頃、福原の清盛別邸に最近竣工した庭園では、宴席が酣を迎えていた。止ん事無き人々の中に、黄昏を惜しむ和歌も出て、此処ぞとばかりに立ち上がった清盛公は、音曲を後ろに得意の舞いを舞い始めた。
やがて彼は舞い扇を差し上げて、沈む夕日を招き寄せた。
「おおっ。」
一瞬太陽がぱっと雲間から出て、恰も沈むを惜しんで又昇り始めたかに見えた。平家の身内の者達は狂喜して喜んだ。
此の思い上がった老翁に、未だ馴染めない人々は、黄昏の薄明かりの中、あからさまに不快な表情を浮かべたそうな。

二日後福原の新都では、未明から表を多くの兵士達が、頻りに行き交う音で夜が明けた。
「六波羅様が危篤らしい。」
「そんな馬鹿な。」
「いや、誠の事らしい。」
「こらっ。そんな噂が漏れたら女子供でも首は無いぞ。」
しかし、一度湧いた秘密は如何に隠しても瞬く間に広がるらしい。三日目には近畿一円に噂は広がった。

其の頃、古都移転の狂想曲に乗り損なった人々が居た。
此処六波羅に近い藤原某の館には、年老いて官職を追われた翁が、独り庭先に佇んで居た。最近古都では多くの賊が現れ、好き放題に荒らし回って居た。
此処の翁の館も例外で無く、家財丸ごと失ってしまった。
「誠に嘆かわしい世間じゃ。」
命だけは助かったものの、明日の暮らしも儘ならずに、日がな呆然と過して居るのみであった。

此処奥州石巻近郊、鮎川にある名主の館では宵の内、人々の張り詰めた緊張がみなぎっていた。
廊下の行き来する音、炊き出しの甘い飯の香りがする。
「静まれ。」
館の中庭に義経股こうの武者共が、三、四十名集った。
奥から真紅の鎧姿も凛々しい義経が弁慶、主人、吉次をお供に入室して来た。
「源九郎義経、此れより平家並び木曽軍征伐の為、禁裏より令旨を受けた鎌倉の兄君の配下に付く。鎌倉の命に従い暫しその時を待ち居りしが、此処に愈吉日を定め、出立つの日を迎う。我が戦機南無八幡も御照覧あれ。」
義経の宣言に続き、総員で勝鬨を上げた。

大洋の荒波に突き出た牡鹿半島。未明の薄暗がりに、多くの松明がゆらゆら揺れる。
十五艘の小舟に鎧姿の男共が乗り込んできた。
「では。」「では、御無事で。」
多くを語らないその目に、皆々それぞれの決意が見て取れた。
一群の船団は、櫓を漕ぎつつ半島沖合いの、秘密の入り江に向かっていた。
「おおーい、こっちだ。」「来たぞ、来たぞ。」入り江の奥には、大きな洞がぽっかりと空いている。
船着き場に着くと、もう明け方の鮮烈な光りの中、深い水底まで良く澄んで見えた。
「はっ。」「とおっ。」
掛け声も勇ましく、十五艘の小舟から五十名の武者共が、三隻の軍船に乗り込んだ。旗艦であろうか。
中央に小屋掛けの船室がある。武具も、水も、食料も、吉次の計らいで、十分に積み込んである。
「では、参るぞ。」
「うおーうおーっ。」愈々満を持して一団は外海へ漕ぎ出した。総勢一五○名。明るい光りを横に受けて、義経、弁慶を始め、男達の顔が凛と引き締まった。
松島沖合いは波が荒い。嵯峨渓から少し内湾に入り込んだ。
「松島とは聞きしに勝る名勝よな。何でも八百八島が点在するとか。しかし、見事なものじゃ。」
山国育ちの義経は海に魅せられた様だった。「おお、あれが仁王ガ島とな。あっっはっは、どう見ても弁慶島じゃ。弁慶気を悪くするな。戯れじゃ。」
船は松島の内湾をぐるりと巡ると塩竈、仙台方面へ向かい、南下して行った。昼は沖合いを進み夜は岸辺近くに錨を沈めて仮泊した。その日も阿武隈川の河口、亘理の荒浜近くに仮泊していた。
さて夜陰に不吉な気配を感じ、弁慶は目を醒ました。岸辺に波音とは別の何者かが蠢く気配がする。
月明かりに目を凝らすと、武者姿の男達が数十名、こちらの様子を伺っている。突然に灯火が、ぽっと点ったかと思うと、三条の火矢がこちらの船目掛け飛んできた。
その内の一本が二番船に届いた。その明かりを目指して、数十本の矢が、ばらばらっと飛んできた
慌てふためく船内だが、森口吉エ門の叱咤で活気づき、義経軍は直に反撃に転じた。磯は腰までの深さで味方の軍勢は、ざっと水に入ると岸めがけて馳せ寄った。
「やあやあ、我こそは源氏の御大将九郎義経様が家来加藤忠五なるぞ。尋常に勝負勝負。」
あちこちで戦闘が始まった。出立早々の戦であった。これは絶対負けられぬ。
義経軍の迅速な反撃が効を奏した様である。敵方はバラバラッと逃げ帰った。
敵の一人を捕らえてみれば、平家の一族で、奥州に流れてきた落ち武者の一隊であった。
春先の海辺の合戦ゆえ味方の一部はずぶ濡れになり、戦力の維持のため、やむなく休憩を余儀なくされた予定外の上陸だった。
冷え切った体を温め、出直す為に、近くの民家を借り受け、翌日までまる一日暖を取った。
「申し上げます。」
見張りの若者が報告に来た。
「只今、地元の源氏方の者と云う方が、殿にお目通り致したいと申して居ります。」
一瞬不安な空気が立ち込めた。
「何名か。」
「はっ、二十名程です。」「代表の者二名のみ、目通りを許す。」
「はっ」数名の雑兵に囲まれ、質素な出で立ちをした初老の男二人が入って来た。
「御前へまかり出ますお許しを、忝なく存じます。」「何者じゃ。」
「ははっ、私先祖代々源氏の流れを頂きまする、地元の長田新衛門と申しまする。」
「明け方、当地で源氏の御殿が、窮地にあると聞き、取る物も取りあえず、親族一同を引き連れて参りました。これは正しく陣中見舞いの土産でござる。御前に献上致したいと存じまする。」
大きな包みを開くと、それは温かい炊き出しであった。先ずは長田某が一つ頬張った。
厳冬の明け切らないこの時節に、水まみれになる事は、非常に戦力の消耗に関わる事なので、この炊き出しと、一献の酒の差し入れは、義経軍全体の志気高揚になった。
用心の為にもう一夜は、厳戒体制の中、陸上にて暖を取った。次の日義経軍は心機一転、更に常陸方面目指し、南下していった。

「梶原殿は居るか。」
屋敷の奥から、主人の張りのある乾いた声が響いた。「ははっ、只今参上致しました。何かお急ぎのご用で。」
「おおっ相変わらず、そなたの忠勤振りよのう。」頼朝公は、いつも通りに朝食の後、居間で寛いでいた。
表の執務室に向かう前、書見台で本を読んでいた手を止め、独り物思いに耽っていた。
白い面長な顔だちに、細い切れ長の目を、やや伏せて。
「梶原殿、兼ねて存じておろうが、わしの弟の事じゃ。暫く前に殿上から、平家、義仲追討の沙汰が下った。あの男もようよう腰を挙げたらしい。
常日頃、忠義心に厚いそなたじゃが、この度の弟の目付役として、力添えを頼みたい。」
梶原はほんの微かに、ためらいの気持ちがあった。無表情の梶原が
「ははっ、光栄に存じます。」と言った言葉はやや鈍っていた。
心の中を見透かされぬよう、即時に応えたつもりだったが頼朝は。
「何か気にかかるか。」
「いいえ、滅相もござりませぬ。御殿の弟君は私にとっても…。」
と言いかけた梶原は、全身にぴりりっと緊張が走った。
すかさず
「殿への信義にかけて忠義を尽くしまする。」
梶原としては頼朝への忠誠心は変わり無いが、感の鋭い頼朝の心が、ほんのかけらでも疑惑として、己の方に向く事が恐しかったのである。
「はははっ、そちに任せたぞ。」
何くわぬ顔で表に出て行く頼朝に、剛直そうな梶原も冷や汗物であった。
「何ゆえ今頃拙者に。」何やら不安なものが潜在する予感に、肌寒い心持ちであった。

鎌倉はひと昔前には考えられぬ程、町並みに重厚さが増してきた。頼朝公は朝廷や京の公家衆から一目も、二目も置かれ、今や平家に代わる一大実力者と、自他共に認めつつある今、何ゆえに此の田舎街から、日の本の政治の表舞台へ参らぬか。
この事は今は触れずに置こう。
頼朝の執務を執り行う役所兼屋敷を中心として、東西に寺社、武家屋敷、商店、町人街まで、春の野辺に芽吹く花々の様に、驚く合間に街は変貌し続ける。
「おう、佐々木殿」
「何じゃ加藤か。」
「いよいよ動き始めましたな。」
「隣の居眠り犬の事か。」
「かはっはは、冗談でしょう。」
「悪かった。うん、みちのくの御方の事だろう。」「鞍馬山の小天狗殿か。」
「藤原殿がお許しなされたか。」
「いや、藤原様も、相当手を焼いたとか。」「でも随分と時間がかかるの。」
「いや、みちのくの雪は、人馬の足枷じゃ。途中の難所や峠越えも其れはもう大変じゃ。」
「いや、それこそ落ちぶれたと云え、平家の伏兵も居るぞ。」別の人だかりでは。
「何でも、みちのくの御曹子が行方知れずだそうな。」
「みちのくの果ての石巻とか云う里で旗揚げしたとか。」
「何でも、名勝松島の沖合いで軍船が暴れ回っていたとか。」
「みちのくの小天狗が、主従揃って討ち死にしたそうじゃ。」

「おお、あれは何か。」
常陸の国大平洋岸の豊浦浜に小さな漁師村があった。都の政り事や、流行り唄とは全く隔絶した処である。今日も漁師達は豊かな幸を求めて、沖へ出ていた。
日も高く昇る頃、水平線の彼方から、いきなり何やら見慣れぬ物がやって来た。
巨大な軍船が三隻も出現したので、その驚き様は無かった。
「ありゃ何だ。」「すげー船じゃな。」
船には小屋掛けの船室があった。雑兵共が舷側に大勢並んで、漁船の群れを眺めている姿も見える。
船が近付くにつれ、漁師達は漁を続けるどころの騒ぎでは無くなった。あんな大勢は村の祭りでも、滅多に見られない。
男達は漁具をまとめて港に引き上げ出した。
「うお〜い。」
「とまれ〜。」「何じゃ云うとるが。」
逸る心を押さえつつ、その漁師の中で長老格、初老の男が漁師達に停船を命じた。
そして巨大船の近付くのを待った。
「お〜い。杉山の彦三殿は居るか。」
船と船が近付くと、互いに顔が見渡せる様になった。
「杉山の彦三なら、わしの兄貴じゃが。あー、兄貴殿が云って居った。あんたら、源氏のお殿さんじゃな。」
「わしは源氏の御大将の家来、沢田幸次郎と申すが奥州の吉次殿を通して、彦三殿に話は通してある筈じゃが。この船団は訳あってこちらの常陸の国の豊浦浜に立ち寄り上陸したい。」
「その話しなら、わしも兄の彦三から聞いて居ります。漁師の下っ端共は、良く分かって居らんが、心配はござらん。では、浜へお上がり下され。」
義経軍団は長い荒波を幾つも乗り越え、やって来た。
春未だ浅き外洋の波濤に悩まされつつ、一気に常陸まで漕ぎ渡って来た。早十日も経っていた。静寂の中突然降って湧いた軍団に、浜は大騒ぎであった。
浜の長老杉山の彦三は、二、三日前より密かに街道筋へ、見張りを出していた。

「いよいよ、お出でなすったね。」
街道筋、山間に一軒の旅籠があった。
ニ階の部屋に街道の馬喰が集まっていた。
その内の一人は女だったが、中々の女傑振りで、馬喰衆を仕切っていた。
「お前さん達いいかい。わし達奥州の馬喰の心意気だよ。」
「そうよ其れを見込まれたって訳じゃ。」
裏街道を駆けに駆け続け、漸くこの日が来た。
「吉次様のお指示通り、馬六十頭間違い無いね。黒さんの所が二十五、さぶさんの所が十五頭。こんな処か。皆ご苦労だったね。」
姐御肌の女の周りに、一面花が咲いた様で、何かと華やぐのが仲間の間で好評であった。
「しかしだね、あの殿さんの馬だけは厄介だったね、正直の処。
殿さんの云うことは聞いても、我々玄人衆の云う事は中々聞きたくないらしい。さんざん手を焼かしてやっと、わしらの事にも馴染んでくれたっけ。」
突然の遠出で、三頭の馬達も相当へこたれた様だ。「しかし、あの馬だけは別さ。実にしぶとい馬だった。ま、だからわし達助かった様なものじゃ。」
吉次は義経軍団が早春大移動する為、人員は船で海路を渡すが、大量の軍馬をどうするか考えに苦慮した。
早春とは云え奥州は未だ相当の雪が残って居る筈である。何十頭もの馬を動かすのは、並み大抵の事では無い。飼葉も相当の量になるであろう。
そこで天下の金売り吉次は軍馬の現地調達を考えた。馬は常陸近郊で以前から目を付けていた、軍馬専門の馬喰達を押さえる事である。一番面倒な事は義経の愛馬をどうするかと云う事であった。
そこで目を付けたのが、奥州の青鬼こと大場政太郎の遠い親戚関係が、桃生郡で馬喰をしているとの事、馬の調教については天才的な感性を持つ「おせん」と云う女馬喰であった。
馬喰と云う言葉は本来支那の有名な伯楽から来て居ると云う。
それはさておき頭の良い、人間より遥かに体力の有る馬を馴らす事は、素人には至難の技である。
彼等に義経軍の動きに相前後して、義経の「愛馬」含め二、三頭の馬を届けさせる算段であった。
問題は感が鋭く気性の荒い馬を、無事届けられるかどうかであった。金銭の事なら三国中、誰とでも競う自信の吉次も、生き物相手は不得手であった。

二十日程前の事であった。
白い雪の季節奥州路は、旅人にとって相当手強い相手である。
其の頃おせん達一行は吉次との約束を果たす為、石巻を発った。
詳細は知らされて居なかったが、奥州の馬喰の技量を見込んでの事らしい。この初春の厳しい時期にどうしてこの”みちのく”の峠や山路を越えられようか。
初めは納得のいかない、おせん達であったが、「白雁」を初めとする四頭馬の技量を確かめる事からはじめた。
冬の長途の旅は馬でも根性がいる。又頭の良い馬で有って欲しい。馬達ともよくよく話し込んで納得づくでなければいけない。馬もなかなか人の云う事は分かるらしいのである。
大自然の中に獣道と云うある種の動物独特の通り道が有るが、馬喰街道と云う特別の道が有るらしい。
飼葉は雪の降り出す前に、大急ぎで街道の要所、要所に「隠し飼葉」として準備しておくのが習わしで、この季節の特異な旅の場合に、玄人としての肝要な心構えである。
冬場の奥州の山中には、どんなに探しても馬の餌になる物は皆無である。何の準備も無く馬で遠出するのは、自殺行為である。
熟練の馬子の頭の中には、確かな陸路図がある。そして永年の経験と勘がある。おせんはこの旅で、先輩格の「まご爺」を先導役として依頼した。
一寸先も見えない雪道でも、この用心深い初老の達人にとって、絶望と云う結論には結び付かないらしい。街道の雪に埋もれた標を絶対見逃さない。それと驚くべき事は、あの「白雁」を自在に動かす、おせんの馬子としての天性であった。
「えいっ、ハイドウ。」
「そりゃ、オッ、オッ、オー。」
深い雪道を避け、特注の馬具も揃えての峠越えである。途中、居たであろう盗賊共も、この奥州一番の馬喰の一族には一目置いて居る。思ったより何事も無く、此処まで来られたのは、吉次の差し金の効果が効いた事もあろう。

源氏の大将と云っても、おせんには皆目判らぬ世界のお方であった。
五月の馬場は光が眩く降り注ぎ、胸の中にしみ込む様な清涼に満ちた空気も、ただただ心地良いものであった。
馬場の向こう側に数頭の若駒が群れて居た。「おーい」とおせんが呼ぶと馬達は、一斉に駆けてくる。
栗毛、黒毛、白毛、五頭、十三頭。白毛と云えば「白雁」が居ない。
「何処へいったんだろう。」頻りに白雁を探すおせんだった。
「聞こえる、白雁だ。」
遠い彼方で聞こえるのは、白雁の嘶きだったろうか。潅木の林や杉木立を廻り、草原を彷徨って居るおせんが、気が付くと小高い丘の上に、立派な武者姿の男が立っているのが見えた。
「おせん。」
「ご苦労であった。」おせんは泣いた。
訳も判らず泣いて居た。
「良くやってくれた。」その時、五月の風が唸りを上げて、二人を包み込んだ。
ふっと意識を失うおせん。

「おせん、どうした。」
此処は旅籠の二階だった。どうも五体の疲れに唸なされたらしい。
「おやおや、夢か。」
正気に戻ったおせんは、心配そうな馬子爺に、何でも無いと愛想笑いをして再び床に入った。
夜明けには未だ時間が早かった。約束の地まであと八里、白雁も無事届けられそうだ。
この仕事が終わったら直ぐ帰ろう。桃生の里は未だ寒かろう。心は既に田舎の空が恋しい様だ。

遠く山間から、鶯の鳴く声も待ち遠しい陽気である。先日常陸を発った義経一行は、武蔵野の街道を上り、荒川の千住を渡った。
入り江に沿って湿原が広がり、都鳥と呼ばれる水鳥が群れているのを、此処、彼処に眺めつつ進んだ。
住処も無く、延々と放浪の人生を送る事に、半ば飽きてきた義経。やがて対面する肉親への想いと、期待が複雑に交錯して、仲睦まじく巣繕う鳥へも微かではあったが、羨望の想いを禁じ得なかった。
途中兵を休め乍ら品川を過ぎ、数日後に黄瀬川の宿にて、待ち受ける頼朝と合流する予定であった。
「何ごとじゃ。」
義経軍の行列の先頭が止まったので、全軍にひと先ず停止を命じた。
五名の見知らぬ武士が、正装でやって来た。兄頼朝の使いであった。
「鎌倉殿の上意である。」
使者は義経の前に丁重に迎えられた。
「九郎殿。某、頼朝公股肱の梶原景時と申す。以後お見知り置を。」
極めて慇懃に口上を述べた。見た目は穏やかそうな顔に、少々癖が有りそうな目の光りを、何故か弁慶は気にかかった。
「さて私、尊公より九郎殿のお目付け役を、仰せつかり申した。
今後共何がしかと、頼朝公よりのご指示のまま、目付け役に専心致しますれば、宜しくお願い仕る。」
「早々のお役目ご苦労に存ずる。兄者はつつがなく、お過ごしで。」
「ははっ。尊公、極めて御壮健で公務に精励致されておられます。」
「其れは我が身に於いても、嬉しい限りじゃ。」
すると梶原は形を改めると、
「此れより九郎殿の警護は我々、鎌倉殿の家来衆が引き継ぐ事によって、兵馬は此のまま止めて、御家来衆は二十名にて、お目通り願いたい。」
側に居並ぶ若武者の中から、
「二十名。いや、随分と…。」
すかさず義経が
「待てっ。佐々木。」
「ははっ。」
「兄君が申す事、至極当然。関八州一帯は最早、兄頼朝公のご支配下。兄上の弓矢の及ばざる処、無し故。物騒な軍馬は、今日は遠慮致そう。」
「皆には此処らで、じっくりと休んで貰おうか。」
一行は騎乗の義経と弁慶始め総勢二十一名で、頼朝の待つ陣屋へ向かった。地元の庄屋屋敷を仮の陣屋として借受けた。
沿道には多くの板東武者が居並んだ。陣屋に近付くにつれて、道の左右に幔幕が張られ、白い幟旗が春陽に眩しくはためいて居た。「九郎義経殿のお見えです。」
野外に張られた幔幕の囲みの中、兄と弟の座が設けられた。
「よう、参った。」
「久しく無沙汰を致しました。御壮健のご様子何よりでございます。」
「そなたも無事、堅固な様子。風の便りに聞いて居った。」
互いに見つめ合う中に、肉親としての温かさが感じられた。
「奥州の春は厳しいとか。大義であった。」
「云うまでも無いが、源氏の頭領のわしが居て、その弟の立場は厳しいぞ。」
「はっ、其れは肝に命じて。」
弟の、精一杯の背伸びに少々眩しさと、頼母しさを頼朝は感じた。
「すでに存知て居ろうが配下の梶原を、そなたの目付け役に申し付けた。板東武者としての心得等、皆の範とせよ。」
「ははっ。心して忠勤仕ります。」
「酒を持て。」
「ははっ。」
一同にも酒が振る舞われ、また稀有なる再会に恵まれた兄弟を前に、祝賀の舞いが一差し披露された。
板東武者らしく、凛々しい大らかな舞いであった。午後の残照に銀の扇がきらきら照り映えた。
夕刻、頼朝の軍勢が引き上げ、一時した頃義経軍はこの陣屋にて、一夜を明かす事となった
。明日朝いよいよ源氏武者の頂点である、頼朝の居る鎌倉へ向かって、改めて晴れの行進が始まる。
兄頼朝は一足先に立帰り、弟を迎える事になる。
「御目出度うございます。」
「うん、感慨無量である。」
「人生とは不思議なものよ。天涯孤独と信じて、山野を歩き回った鞍馬が懐かしい。何時の頃か兄上の事を聞いてから、ずっと此の日を待っていた。これも父上、母上の御導きかも知れない。」

鎌倉への道は頼朝軍が富士川の戦いで、平家軍を圧倒的に撃退した、凱旋直後の事で街道は非常に活気付いていた。
板東武者の武勇は、道々通る旅籠等でも評判であった。
「ほほう。鎌倉勢も仲々のもんじゃないか。」
すると其れを聞き付けて、
「これっ、意味有りげな申し様は物議の元じゃ、気を付けられよ。同じ源氏の友軍なるぞ。」
手柄話しには、やっかみ、妬みも良く有る事。しかし許容の箍が緩めば、身内同志内でも厄介な事に成る可能性もある。用心深い弁慶の老婆心であった。

鎌倉の頼朝の屋敷は賑わった。
富士川の戦勝に続く慶事続きで、どの顔も明るかった。
今朝鎌倉入りした義経軍は、特別、府内東外れに用意された屋敷と、家来衆の住まいになる、長家に入る事を許され待機していた。
日没頃、使者の導きの儘、義経とその家来達三十名は、静々と邸内に歩を進めた。
奥の広間には、中央に頼朝、少し離れて政子。そして左右に居並ぶ家来一同が控えて居た。
「九郎、良く参った。今日、兄弟として会い難くして、無事会える事も神仏の縁か。誠に目出たい限りである。」
「はっ、有り難き幸せに存じます。
兄上のご政道、武勇、街道中に遍く伝わり、遠く奥州の果てにても、九郎誇りに感じて居り申した。
我も板東武者の流れとして、勤めさせて頂く事、有り難く幸せに存じます。」
「そうか、それは良かった。」
「それ、こちらが我が家臣団、こちらが妻女の政子じゃ。」
「は、お見知り置を。」
義経が三方へ深く礼をすると、政子が、
「九郎殿、良く参られた。ご壮健のご様子ほんに頼もしい限りじゃ。皆、おもてなし致せ。」
「はっ。」

祝辞が続き、酒肴が並んだ。
やがて笛や、鼓が鳴り出し、舞いが始まった。目出たい祝宴であるが、義経にとって、この類いの宴席は余り得意でなかった。欠伸を奥歯でそっと噛み殺す事も、年嵩故のの賜物か。
しかし義経の一瞬の苦笑いも見逃さない頼朝の恐さであったが、やがて長い宴も何事も無かった様に無事終了した。
「殿、お疲れ様でございます。」
「うむ。」

頼朝の一武将となった義経は出過ぎず、しかし又喫緊の事態が在れば、先陣を切る武人の手本とも成った。
しかし九郎としても甚だ窮屈である事は否めない。さて常陸の国と云えば義経一行にとって、懐かしい土地になった。
一昨年鎌倉入府のため、この道を通った兄弟対面の慶事が思い起こされる。
さて時は春爛漫、道々野の花が咲き乱れ、人の心も浮き立たせる。
一行は頼朝の命を受け、この地方の治安を守る為に巡回する役目であった。とりわけ此の地方に、と云う事は訳が在った。
当時この地方には、夜な夜な魔物が出ると云う事であり、人心の安定を計るため、特別掃討の命が下った。
関東の地は古より板東太郎が蚕食していた。と云っても御存知、利根川の別名である。その名も暴れ河なるが故である。
出し抜けに
「いよーほっほぅ!」
若者の奇声が弾んだ。義経は数年以前、奥州の石巻以北に広がる田園地帯を思いだした。
つい此の間であるが、あの頃は随分と若かった様な気がする。最近頓に大人びて来た彼である。
思い出すのは、延々と続く緑の原野で愛馬の「白雁」を追っていた日々の事であろう。一段と分別臭くなった彼も今では源氏の、一武将として地方の見回りに精を出している。
時折、自由な日々が懐かしく思える。
「殿、五の関所でござる。」
「少々荒れているの。」すると、
「此れは此れは九郎様でございまするか。手前はこの里の庄屋でして、三つ熊の伝四郎と申します。」
「近頃この地に魔物が出るとか。」
「ははーっ。その事でございます。晩に成りますと、大盛山から賊が出て参ります。是が中々強うございまして。ふざけた事に天狗の装束をして出て参ります。」
「何、天狗とな。其れは懐かしい。ふぁはっはっ。で、何と為すか。」「はい、金品はおろか時には娘を攫って参ります。」
「ふむ、其れは笑って済まされぬ。許せよ。」
「わしは頗る天狗には縁が深くてのう。天狗共とは昔、鞍馬で沢山、相撲を取ったりした物じゃ。」
「…?」
「しかし、悪さを仕出かすのでは、是が非でも征伐せんとなるまい。」「なあに、おまけに天狗以外に、赤鬼、青鬼の付き合いもあっての。あっはっはっはっは。」
一同可笑しさを堪え切れず、思わず大声で笑い合った。其れが里の者に大分、心強く思えたらしく庄屋某も一先ず、安堵の色を見せた。

鎌倉と違い、関東の奥まった里では、夜にも成ると月灯り以外は、殆ど灯りらしい物は無かった。いつもと違い庄屋の家では夜更けまで、話声が絶えなかった。
だが、さすがに夜更けになると周りも、とっぷりと静まり返った。すると遥か彼方から、ぼろぼろの赤いのぼり旗を閃かせて、一団の男共がやって来た。一人一人異様な天狗面を付けている。田舎の細い道なので、細長い行列となってやって来た。
村外れの切り通しの所で、先頭の天狗が只ならぬ気配に、思わずぎょっとした。天狗の行列が出くわしたのは、身の丈の六尺越えるる大きな赤鬼であった。
すると後ろの方から
「ぎゃっ」と云う叫び声がした。
「鬼だ〜っ。」
「なんと。」狭い田舎道で、三十人程の偉そうな面を付けた天狗共は、前後から赤鬼、青鬼に挟まれて、蜂の巣を突いた様な大騒ぎになった。やがて各々が義経の家来衆に捕らえられた。
「これ、無闇に殺すでない。天狗といえど、矢鱈に殺生はいかんぞ。」強きには鬼神の弁慶も、弱者をいたぶる不遜な神経は、当然持ち合わせていない。
「如何致す弁慶殿。是くらいの事は、わざわざ殿のお手を煩わせる事も無かろう。」
「で、天狗殿の親方は何組か。赤か白か。」
「はっ、拙者平家の名将…。」
「いや、其処まで。武将たる者、主人の恥を曝すのは、偲び無い事じゃ。」
天狗面を外した男共は、はらはらと落涙した。
「辱い。」
「もしや貴殿が荒法師の弁慶殿か。その御名は都で以前、知れ渡ってござった。」
「時に、武人と生まれて、このまま荒れ野に屍を曝すのも偲び難い事であろう。改心あれば平氏方へ逃げ帰るも良し、山奥に入り、土に生きるも良し。しかし、宗旨変えは受け兼ねる。」
「有り難きお言葉、感謝致します。早速仲間内で身の振り方を相談致します程に、はい明日中にはお尋ね致したいと存じます。」
「うん、其れも良かろう。必ず待って居るぞ。」
「では、失礼仕る。」
月灯りに照らされて、哀れ天狗共は棲み家目指して、すごすごと帰って行った。
「赤鬼殿、手ごたえが無さ過ぎるのう。」
青鬼が不満そうに云った
「まあ、こんな物でござろう。はっはっ。」
「我々の本分は、左様な所に非ず。されどされどじゃ、我らは、お館様の手足じゃ。何れ源平の決戦は必ず来る。その日までの馴らしじゃ。」
「はーはっはっは。」

義経は此の年の秋口頼朝の命を受け、関東の名所高尾の麓に、賊の征伐に向かっていた。
平家追討と云っても世間は多事多難、頼朝に課せられた責任は膨大なものであった。
一々自身で解決事に当たって居る訳には行かない。
又西に平家有りと云えども、追討には“機”を計らねばならない。
何時旗揚げするかも大事の一つなのである。
平時と云っても配下を休ませる訳にもいかぬ。
舎弟と云えども甘やかす事は出来ない。
人に先んじて、先ず身内を遣わさねば直ぐに足元を掬われる。
しかし、九郎は否応無しに兄の為、いや武家の総師を立てて、良く動いた。
甲州街道を新宿の里から狭山に近付くと、ある唐松林の近くに一つの塚が建てられていた。
その前に大男が従者を従えて膝まづいて居た。一行は目も呉れず通り過ぎようとすると。
「お待ち下され。」と声が掛った。
「何用じゃ。」
弁慶が、其の旨を尋ねると男は、
「私は此の地で武門の端くれとして先祖の代から棲み居る者で秋部十六と申します。源氏の御大将の弟君がお目見えとの事を耳に致しました。何でも賊のご征伐にご下向と聞き、御供仕り先陣をお受け致したく、此処にお待ち致して居りました。」
「僭越ながら私此の地に於いて弓矢の道を極め、田舎ですが無双と申されております。勝手乍ら是非その腕前の程を、ご高覧頂きたく存じます。」
「そのお方、御前にて立って見せられい。」
秋部某、ではと立ち上がると弁慶も思わず後退る程の大男であった。差し詰め相撲の力士然とした体格に、思わず皆で見とれて居ると、
「其れ程申すのであれば技とやらを、ご披露あれ。」
早速臨時に弓矢の腕試しが始まった。
大男は特大の弓を差し出すと、先ずは弓を右、左に回したり古式の形を披露した。前方に設えた的に向かい、右に体を旋回するとじっと的を睨んだ。
やがて大振りの弓を構えて、大きく伸びをする様に差し上げると、其の侭ぐぐっと諸手を開き大三の構えで、不動明王の如く動かなくなった。
「むん。」
声にならぬ声で右手を開いた。
弓は「びゅっ。」
と鋭い唸りを上げ、的の真ん中へ当った。
思わず歓声や溜め息が上がったが、是だけであったら数有る源氏武者に適わない。
続く二の矢、三の矢が放たれると、各々が当って弾け飛んだ。
一の矢から五の矢へ、何れも驚く程正確さと破壊力があった。
しかし、やがて
「其れまで。」
厳しい掛け声が掛かった。
「弓の腕前は、何れも正しく天晴れなるが、我々は平家一族と、やがては生死を決する事になるであろう。腕前は並外れであるが、お手前の並外れた体躯は度を越えておる。弓を射て居る内に、ほれ息が上がっておる。戦場は山あり、川あり、失礼だが己が体躯の始末に困窮すると見る。戦場には向かぬ、諦めなされ。」
一同に溜め息が漏れた。がっくりと肩を落したのは秋部某であった。

義経一行はその日高尾を越えねばならなかった。
「ほーっ、名峰高尾とは聞いていたが、良く見えるわい。武蔵野一帯が手に取るようじゃ。早うせんと陽が暮れるわ。」
大急ぎで先に進んだ。すると、
「待て、待てい。しばし待たれよ。殿の御前じゃ。何物か、名を名乗れ。」
雑木林を掻き分けて、さては熊でも出て来たかと良く見ると、見上げる様な大男であった。
「そなたは先程の石臼殿。」
「何と云う執念じゃ。未だ判らぬか。」
「はーっはっ。お待ちを。」
肩で大きく喘ぐのは先程の大男であった。
「諦め切れませぬ。私は御殿と一緒ならば、火の中、いや地獄の果てまでも御供致します。どう生きるも同じ人生、殿に従って行きとう…。」
「判った判った。」
弁慶は仕方ない風で義経を見上げた。
「如何致しまするか。」
「はっはっはっ。我等武士の何れ行き着く果ては、地獄であろうか。修羅世界は間違い無かろう。道連れは多い方が、又楽しい物じゃ。むげに断るのも、無慈悲な事じゃのう。そなたに申して置く。我が身は自分で助けよ。」
「ははっ、」
大きな体を揺らして泣く姿は、見るに忍びなかった。

寿永二年秋武蔵野に足掛け四年も長逗留していた義経も、いよいよ鎌倉より木曽義仲の追討の命が下った。
「木曽殿も、お公家参りには相当難儀した様じゃ。」
義経の複雑な想い、惻陰の情にかられるのは、同じ武人の立場として同情すべきものを、多々観てとれるからである。
義仲は鎌倉の命を受けると、大将軍として平家討伐に大手を振って上京した。
公家百官にとって、平家であろうと、源氏であろうと根本的には、同族であり武士集団に過ぎないのである。
程々に利用して自分達の安泰のみ願う。それが実体であろう。
あの大化の改新に於いて、公家も武家も一体となって、万乗の君をお守りして来た志は、人間の怠慢の中で、朝露の如く消え去ったのであろうか。
さしもの平家も山家育ちの荒くれ武士には適わなず、あっと云う間に、京の住まいから一掃されてしまた。
しかし勝利者の木曽源氏も、都の風の無情さに吹かれて、やがて手も足も出せぬ様に、誑かされてしまったのだろうか。
ともかく義経はそんな純情な田舎武士達に、同情するしか無かった。
何時の日か同じ立場に立たされた時、自分はどうなってしまうのか。
武勇に於いては、誰にも負けぬ格段の自信がある源氏であるが、事政治力となると、甚だ田舎人である。
其れにしても都からはなれた鎌倉に、居を構えた頼朝は武士集団を統括する立場として非常に用心深い人物であった。
義経は兄の見えない力に、恐れをなすしか無い。
しかしその用心深さは、言い換えると猜疑心の深さは尋常では無い。
後の源氏の命運が、源氏に味方しなかったのは、その鋼の様に冷徹な、頼朝の性格から来るものであろう。
「弁慶行くぞ。」
はっと、我に返ると目の前にその明るい表情が見える。
それは冒険心と、勇気と、情熱で誰にも負けをとらない主人、義経の目の輝きであった。
「命運は我に下った。只前進のみ。勝利有るのみ。」
その目に迷いは無かった。
「行きまするぞ、何処へでも。野を越え、山を越え、火の山、針の山でも厭いはせぬ。」
その主従の一体感こそ、他の武将達が妬ましい程、憧れる人間関係の華かも知れない。
昔、鞍馬の一童子が津々浦々で、拾い集めた宝物が何あろう義経武勇団の人々であった。
何物も恐れず、突き進む前に敵は無い。明るく輝く朝日を浴びて、白幡をなびかせる姿こそ、義経には似合っている。

「おい、おせん。」
この時、街道には偶然居合わせた馬子達が居た。
頼朝の命を受けた商人、吉次の一団だった。軍隊が動く処大量の物資が移動する。
今回は規模が大きかったので、手の空いたおせんも偶々呼び出されたらしい。
戦乱の厳しい時代であったので、こんな時おせんは、決まって用心に男支度で振る舞う。
「おせん、このアオの毛並みは、お前良く手入れをしているなあ。」
「ああ、そうですかい。」
今、この街道を行く武者姿の一団が、義経の軍であると知ったのは、一時前であった。
「おい、おせん。どうした、聞いて居るのか。」
馬子仲間の百助が、先程から話しかけているが、おせんの耳には入っていないらしい。
「白雁はどうしているのだろう。あの賢そうな目、気の強さ…。」
でもおせんは自分の心を偽っていた。
無意識に強い願望を記憶の奥に、閉じ込めていたのだった。
あのお侍さん。
あの若い大将が……、
その次の言葉が、自分の気持ちが恐かったのだ。
火照った顔の表情を他人に悟られないよう用心しつつ、妄想の総てを両方の手で振り払っていた。
奥州の女傑と云われた馬子のおせんが、一体何を考えているのだろう。
その時おせんは全身を貫く、強いものに惹かれて思わず見上げた。
「あっ。」
思わず声を出す程に驚いた。
誰あろう心の人が、私の小さな心を捕え、占領してしまった人が、馬上高く周りを見渡していた。
運命は何と意地悪なのであろう。
余りにもの羞恥心に、眩しさに、おせんは失神してしまった。

「おせん気が付いたか。」
「あっ。吉次さま。」
旅籠の一室に、おせんは寝ていた。
「辛かったろうな。」
「……。」
全身真っ赤で消え入りそうな、おせんは何も言えなかった。
「おせん、殿様に首ったけかい。」
思わずはらはらと、涙が溢れた。
おせんは、くるりと寝返った。状況はおおよそ納得した。
「申し訳ございません。」
「いや、謝る事は何もない。しかし殿様も驚かれた。突然目の前の馬子が倒れてのう。」
又大汗をかいてしまった。
「今、殿様は西国に居る平氏の征伐で、御旅の最中じゃ。その前に木曽殿と、命のやり取りがある。
女子のそちには、判らん事も多いじゃろうが、実際殿は大変な難儀を抱えておる。長い旅になるであろう。
殿のお側には百戦錬磨の男衆が一杯居る。わしが一つ、気掛かりな事は、殿が寂し気だった事じゃ。
戦に明け暮れ、明日の命が有るかどうかの中で、お側に華が在っても宜しいかとわしは思う。」
「殿には未だ、ご正室がござらぬ。わしが思うに、そちを正室にとは行かぬが、何処に居ても心の慰めになれる、女子の話し相手が居ても良いと思う。」
「……。」
「お前は中々器量も良い。又白雁を通しての縁も不思議じゃ。どうじゃ殿のお馬番をしてみないか。勿論馬の世話は、形だけで良い。」余り突然の事で、おせんは、色々の事が頭の中で回り始めた。
「おせん、返事は又後で良い。戦場に女がと思う者も居るだろうが、お前は『巴様』を存知て居るか。」
「いいえ。」
「さもあろう。」
「これから殿の雌雄を決する木曽殿の奥方の名じゃ。弓矢を持って戦場を駆け巡るそうじゃ。だが、おせんに其処までは考えて居らん。殿の日々のお話のお相手をして居れば良い。殿の事じゃ、いざと成れば女子供はそっと逃がしてくれるじゃろう。」
不思議な展開に、おせんは戸惑うばかりであった。
巴とはどんな人か。いや、それよりも自分は、殿の為に何をして差し上げられるのか。
もう、おせんは其の事で頭が一杯だった。

「者共進めやっ。」
「おうっ。」
霊峰富士の威容を眺めつつ、義経軍は進んだ。総勢一万。
ぞくぞくと続く軍勢は、壮観な眺めである。水も漏らさぬ陣容である、本陣の四方を固めるのは御存知、赤鬼、青鬼、石臼殿、佐藤継信の四天王。
弓矢は石臼殿や、那須の与一初め、多くの名手。馬の乗り手は、総大将の義経はじめ、梶原、他名だたる武将。
そして多くの兵卒に続き荷駄の列が延々と続く。
しかし、此の中に多くの者は気付かぬが、異色の顔が在った。
総大将義経の馬回り、其の数人の中に一人、小柄な男がいた。
いや男と見えたが良く見ると、其れは例の馬子おせんであった。
恰も木曽源氏義仲の妻、巴御前と見まごうばかりの、凛々しい武者姿であった。
思わず義経が云った。
「うん、女子にしとくのは勿体無い。なあ弁慶。はっはっは。」
「御意。」
恥ずかしさを被り物で隠しながら、行くおせんであった。

「吉次様。大丈夫でございましょうか。」
この大軍団を見送る中に、旅姿の吉次や馬子じいが居た。
「なに、世の中、勢いが大切じゃ。ぐずぐずしてたらあっと云う間に、わしや馬子じいじゃ。こう生きるも一生。
ああ生きるも一生。戦と云えどもあれだけの大所帯じゃ。
そう負け戦ばかりでもあるまい。何処に居ても死ぬ者は死ぬさ。
恋はするもの。若い者は羨ましい。」
「本当でございますね。」
大部隊の姿が見えなくなるまでに、半日もかかった。

漆黒の帳を見上げると、其処には満天の星が輝いている。
今が戦国の世とは到底思えない美しい世界だ。
空は限り無く高く、東の地平から次第に昇る月が、幻想的に夜空を演出する。
暫し眺めた夢の世界から、視野を下界に移すと、下の世界も満天の星であった。
地上を埋め尽くすのは、一万に及ぶ兵士の炊ぎの灯りであった。
遠く近く、どよめきと笑いが辺り一杯に満ち、この世とは思えない有様である。兵達は此の束の間、戦いを忘れ、家族を忘れ、何を語らっているのだろうか。
小高い処に本陣を張った義経と、幹部一同の休み処。義経は四天王に囲まれて、一日の疲れを癒していた。
四天王は気を利かして少々遠巻きに侍していた。やがて夜半には本陣周辺も落ち着いて来た様だった。
時折兵達のどよめき等が、遅くなっても読経の様に、また打ち寄せる波の様に聞こえていた。
その間の静寂の中に虫達の鳴き声が、遠慮勝ちに聞こえてくる。
先程から無言の二人。一人は勿論義経であるが、もう一人は男装のおせんだ。
「お殿様、お許しを…。」
「はっはっは。そなたは何を謝るのか。」
その場を取り繕う言葉を探しあぐねて、おせんが口を開くと義経は、とても可笑しそうに笑った。
「……。」
泣き出すおせんに義経は、肩に優しく上衣ををかけてあげた。
「まあ、泣くでない。吉次も相当気を使った様だ。そちにも何の咎めがあろう。」
「この度の事はわしも驚いておる。しかし不思議な縁よ、わしたちの月下氷人は、なんと『白雁』のようじゃ。
わしが強いて望んだ、憧れの名馬が白雁じゃ。あの憎たらしい程に頑固な馬は、人を寄せ付けないどころか、逆に人を寄せつけよるわ。わしもそうじゃが、おせんもそうじゃろ。
あ奴は馬にしておくのは実に勿体無い。」
「ほほほっ。」
「おおっ。漸く笑ったの。」
「まあ、心配はいらん事じゃ。配下の者には良く云って置いた。気の利く男達ばかりじゃ。」
「当面、戦場暮らし故、男支度は仕方が無いが、何れ女子として、身の回りは考えて置こう。」
おせんは何も言えなかった。しかし嬉し涙で一杯であった。

「起床っ。」
「起きろっ。起床っ。」
見張りの、けたたましい声に起こされ、あちこちで、どよめきが起こった。馬のかん高い嘶きも聞こえる。
朝餉の合図を知らせる太鼓が鳴った。
凄まじい食事の光景である。津々浦々の田舎からも、沢山集まった源氏武者。恐らく中には源氏を騙る、平家の落人も相当居る様だ。それが同じ釜の飯を分け合い、又奪い合いながら喰っている。
戦場も同じ人間社会。昨日敵するも今日は顔摺り会わして、旧来の友に似た馴染みの無節操振りである。しかし明日を生きて行く為には仕方の無い事かも知れない。
さすがに軍隊だけあって、あれだけの人数乍ら、食後の後片付けは早い。数百組みに及ぶ粗餐の庭は、あっと云う間に元の草原に返った。

「ピィヒョロロ〜。」
空高く一羽の鳶が舞っている。
「進めー。」
今日も又、行軍は続く。昨日前方に見えていた富士の高嶺も、やがて少しづつ後方へ去って行った。
長い道程も、長良川の大河に近付くと富士の山は、遥か山並に霞んでしまう。
旅の徒然に、鳥の姿や野良に立つ農夫の暮らし等を垣間見る内に、心が遂に和んでしまう。
突然山間から、
「キェーッ。」
と野猿の叫びに似た声を聞いた。小高い丘の上に平家の伏兵が潜んでいた。
蕪矢の唸りと共に宣戦を告げる、法螺や雄叫びの大音響が轟いて、山鳴りとなった。西国に去ったと聞く平家の軍勢が、木曽軍との戦いの前に立ち塞がった。
「行けー。敵は小勢なるぞ。」
なだらかな斜面を音を立て乍ら、坂落しに下って来たが、源氏軍が余りにも大軍勢なので、最初の勢いは何処かへ吹き飛んでしまった。「イヤーヤー。引き返すは卑怯者のやる事。恥を知れーっ。」
「まて、まて。これだけのわが軍の大勢なるが、明日は我が身ぞ、深追いするな。」
歳若だが戦にかけて、さすが天才は引き際をわきまえている。道々兵をまとめ統率する大将振りは抜群の上手さだ。気勢を削がれて一部の兵は憤懣やるかたない無い様子であった。

一日雨に暮れた翌日、青空の下に義経の前進部隊は、木鎚の音高く響かせていた。
川の流れは前日の雨で水嵩が増している。濁った水が怒濤となって行く手を阻んでいる。木曽軍との対決を求めて、前進して来たが、増水した川を其のまま渡っては、一万の兵の体力消耗どころか、下手をすると溺死等の不測の事態も考えられる。
上流の材木を山仕事に手慣れた者が伐採して、此処まで筏を組んで流し、渡河地点で臨時の橋造りをする事になった。
作業は不眠不休で三日で仕上がった。

そして愈々一万の兵が河を渡る事になった。所謂大量の筏を浮かべた、一種の浮橋である。橋は流れによる揺れを考えて、慎重に渡らせなくてはならない。
「一万もの兵士を一気に渡らせるとなると、大変なものよのう。」「弁慶イの字隊を呼べ」
「はっ。」
イの字隊とは軍の中でも特別に、山仕事など工作作業に手慣れた男達の集団である。
やがて今回の手柄を見せた四十名の体格の良い連中がやって来た。「只今、イの字隊到着致しました。」
「おうっ、早かったな。今回の橋造り、大変見事であった。礼を申す。」
「お褒めの言葉、有り難き幸せに存じます。で、ご用の程は如何なる事で。」
「ふふっ。一万の兵の移動愈々佳境。此れから畿内に入るが、長旅の中で兵士の志気弛緩が見られる。愈々敵陣近し、此の河を渡ったからには、敗れても逃げ帰る訳には行かん。」
「はっ、御意にございます。」
「その方達に命ずる。明日朝、橋を流せ。」
「はっ。殿、しかし後方との連絡や、味方の支援に支障がある事は…。」
「いや、わしは味方の支援は、当てにせぬ。」
「はっ。殿のお覚悟皆々良く肝に命じて承ります。」
今渡って来た橋が、直ぐ様流されると云う話は一万の兵に瞬く間に伝わった。
何となく不安がる者、又新たな戦意を燃やす若者等、様々であった。此の様な情報は改めて配下に伝える必要は無い事である。
又口角泡を立てて指揮者が説明する必要もない事を、若者は知っていた。
不退転の強い意志が大切であった。正に義経らしい簡潔さであった。「ようし、俺は御大将に従いていくぜ。」
「俺だってやるぜ。」
もう忽ちの内に一万の兵は戦意高揚、出発を待ちわびている始末である。
雲間から眩しい光がさっと差し込む中、義経精鋭軍団が延々と列を成す。中央の義経本陣が先陣と入れ代わる。その何物をも恐れない剛勇振り、潔の良さに全軍が沸き立った。
義経の馬上の凛々しさに
「うおーっ」
天地を揺り動かす歓呼の雄叫びだ。大変なカリスマである。
しかしその強さ、そのカリスマ性を一番危惧したのは果たして誰か、平氏か、都の公家衆か、対決を目前に控えた木曽の名将義仲か。
果たしてそれは源氏の総大将であり、義経の兄である頼朝であった。この異様な興奮振りを、肌身に戦慄として強く感じたのは義経の見張り番であり、配下の梶原であった。
この肌に粟立つ程の危機感を、逸早く鎌倉へ報じた。
「九郎義経殿に奇怪な挙動云々。」
しかし、鎌倉の頼朝はこの報告に、目くじら一つ立てなかった。「そんな事より、九郎を助けて早々に義仲を討て。と申し伝えよ。」とんぼ返りで帰って行った使いを見送り乍ら、頼朝は小さく舌打ちをした。
これを見ていた妻の政子は、不快な顔をすると、何も云わずに奥へ下がって行った。
目出たい義経の出陣に何事も無ければ良いが、源氏の命運の行く先は、この頃から暗雲が垂れ込んでいたのであろうか。

鎌倉の頼朝の居間には、奥に目立たぬ様、離れがこしらえてあった。二重の隠し戸の前には小姓の杉丸が侍していた。
離れには頼朝が小机を前に、書をひもといている。
「トン。」と一つ窓の扉が鳴った。
「来たか。」「御前に。」
「入れ。」「はっ。」
「若王丸、探査を命ず。」「はっ。」
「九郎の側近に兵器頭で近侍いたせ。良く見て、聞いて参れ。」
「承知致しました。」
頼朝側近の探査組が動き出した。その日の内に義経軍の兵器係補佐として、東海道を西走した。
いよいよ義経本隊は関が原へ差し掛かった。
此れを越えれば畿内である。木曽軍の揺動部隊と、そろそろ出くわす可能性もある。
「むむっ。腕が鳴り申す。赤鬼殿。」
「おおっ。青鬼殿か。」
左右の死角を抜かりなく見つめている弁慶に、興奮気味の大場政太郎が語りかけた。
「赤鬼殿、今朝程の伝令が云うには、兵器頭に鎌倉より補佐役が参った様子、どう見まするか。」
「うーむ、見張り役じゃな。鎌倉方は我々を信用出来ぬらしい。まあ、殿もお気付きの様だが、隠し事のお嫌いな方じゃ。我々は殿のお指図に従うまでの事。」「相判った。」

北に伊吹山を望む山地を越えると、右手に大きく琵琶湖が広がってくる。間もなく彦根である。限り無く続く湖岸を西南に下る。
夕闇に暮れ行く頃である。
「む、あれは何か。」人一倍に夜目の利く那須ノ余一が、夕餉の仕度をしていると、湖上に螢火の様な怪しい光りが、ゆらゆら点っていた。その数は時と共に次第に増えていった。
「何物、亡霊の仕業か。」
怯える下っ端の男に、
「亡霊何物ぞ。本当に恐いのは人の悪行ぞ。」弁慶が云い放った。「ふーむ。あれは湖族じゃ。琵琶湖に棲むと云う一族じゃ。」
その頃すでに琵琶湖には、多くの湖族が水路通行の利権を握っていた。「我々の動きをじっと見て居る。あの螢火は奴らの示威じゃ。恐るるに足らん。」
その夜更けに皆寝静まる頃、湖の沖合いから突然に銅鑼の音と共に
「わーっ。」と云う鬨の声が轟いてきた。
恰も寿永二年、富士川の戦いの時、河原で野営をしていた平家が、源氏の兵の動きで、突然目を醒まされた水鳥の羽音に驚き、右往左往の大失態で逃避した、そんなお粗末な一件が在った。
此れに比して、さすがの関東の荒武者共は、此れ位の事には些かも怯まなかった。
しかし、さすがに二晩も続くと、少々疲れが出てきた。
敵は沖合いに留まり、こちらの味方には舟が無かった。
五月蝿よろしく気を揉めども、相手には手が届かずに、兵達は気が立ってきた。
「者共、火矢の用意を致せ。あの蝿共には此れが一番じゃ。」
義経は弓の射手を五〇名づつ七組揃え、敵が近付く折に各組に一射づつ、目掛けて同時に射掛けさせた。
五十本の火矢が固まって七度も打ち込まれ、さすがの湖族達も肝を潰したらしい。
「火の脅しに対しては、火の威嚇じゃ。はははっ、逃げっぷりが又見事じゃのう、弁慶。」
「御意にございます。」
その夜は湖岸を焦がす程の焚き火が焚かれ、逆に源氏軍の力を誇示する事となった。
沖合いで船団の侵攻を翻し屈辱を味合わされたのが、湖族の一つを率いる山形雲衛門であった。
「腹立たしいが実に見事な挨拶じゃた。はっはっは。こりゃ和を以て奴と組む手段が一番利口なやり方よ。」
配下の彦三郎も「ごもっとも強い方に味方する。これこそ我々湖族の正道にございます。」
「九郎義経とか申す奴、青二才とは申せぬ中々の腹じゃ。何事も早いが勝ちじゃ。明朝、使いを出せ。館脇は居るか、館脇は。」
「はっ。此処に。」
「明早朝、陸に上がって源氏の使者に立て。」「はっ。」
「よいか、下手に出よ、彦三の申す様強い者に味方じゃ。貢物でも何でも持って行け。わしは出んぞ。」
「はっ。」湖族の中でも根っからの交渉上手が使者となった。
朝靄の中、竿の捌きも上手な若者数名に小舟は操られて、警備の隙を狙って接岸した。
「待てぃ。何物ぞ。」
「いや、待たれい。我ら湖族の使いの者じゃ。御殿九郎義経様にお目通りを許されたい。我らは湖族『山形一族』の使い館脇大介と申す。」
「よし、暫し待たれい。」
一同は半時も待たされたが、やがて大地を埋め尽くす源氏の大軍の中を通された。
さすがの館脇も此れまでに無い体験に胴震いを覚え、膝頭が戦慄く思いであった。
さすがに多い。まして今が盛りの源氏の本陣である。
「控えよ。」思わずぺたりと膝を付いてしまった。正面に眼光の鋭い若者が、辺りを睥睨している。その脇には四天王であろう。人とは思えぬ巨体漢を四名も侍らしている。
「一昨晩よりその方等、湖族の持て成し、大変面白かった。」
相当の覚悟で望んだ館脇は思わず全身に震えが走った。
「ははーっ。」
「はっはっはっは。もう、良い我らの返答も痛快であったろうが、はっはっは。」
その時館脇は驚いた。自分の膝の上に涙が、ぼろぼろっと音を立てて落ちた事を。あの底抜けに明るく、温かみのある若者の言葉に、中年の分別盛りの男が泣いたのである。
自分の才覚に溺れ、此の若い大将を翻弄するつもりが、この様であった。自分の迂闊さに泣いたのであろうか。
この自分達に無い優しさ、明るさに戸惑ったのか。
「はあっはああーっ。」
身も張り裂けるばかりに泣いた。この突然の出来事に義経のほうも又驚いた。
「はっはっは。此れは如何にした事か。」

しばらく咽び泣いていた館脇は
「お許しを、私不肖ながら御殿を籠絡する算段にございました。むむっ…。」
「はっはっは。そうか、差し詰め山形某の考えそうな事よ。配下の者の生死は、常に主人の手の内なれば、仕方の無い事じゃ。」
「う〜か、忝のうござる。」
「嘉藤、わしが全てを聞くにも及ばぬであろう。其の方、手厚く聞いてやれ。」
「ははっ。」結局、使者館脇は帰らずに、湖族の小者共には、使者館脇某の書状二通、主人への決別、並びに詫状が託された。義経軍は此れ等に関わらず、本軍を更に西へ進めた。

一方、湖族の山形某の陣地では、
「殿、小者が帰って参りました。」
「小者。館脇はどうした。館脇は。何を、ぬぬっ。とうとう裏切りおったな、あ奴めが…。」
「しかし九郎義経、小童ながら恐ろしい奴め。」
「あの…、如何致しますか。」
「ばか者めが、何を考えておる。あ奴が若造とて一万の大軍勢ぞ。腹立たしいが、われらの小勢で此れ以上何が出来る。しかし館脇め、お前は絶対に許さんぞ。」
哀れ湖族某も、此の大軍勢と、義経の若さ、技量には到底及ばず、歯噛みしながら湖岸の松林の根元で大軍勢を見送るしか無かったのである。

この度の木曽攻めに際し鎌倉は、大手攻めの範頼には五万、搦手の義経に一万の精鋭を配したが、西上する義経軍は愈々宇治川に望んだ。義経は此の度の宇治川一万の渡河に当っては、幸いに渡河地点の上流及び、下流で程良く河舟を多数集める事が出来た。
と云っても一々全兵員を舟で渡しては大変なので、河舟を沢山の板や綱で強固に括り付けて、簡易の船橋にした。
当時の戦では人一倍早く敵陣に乗り込む、先陣争いが盛んで、橋を渡るなど、まどろこしい無鉄砲な者は馬諸共、河に乗り出した。或者は馬上で、又或者は愛馬と共に並んで泳ぎ渡った。
未だ寒い時期なので溺れる者、凍える者も在り様々であった。
土地の百姓や町人、物好き等は近くの小高い丘の上から、源氏軍の必死な奮闘振りを、物見していたであろう。
「あれや、物凄まじい大丈夫なるや。早う渡れや、おーう危なげな事よ。」
其処此処にて、荒武者同志の一騎討ちが始まった。
同じ源氏同士故その戦い振りは壮絶を極めた。正に血で血を洗う如き悲惨な戦であった。
義経を始め四天王等は、諸々の戦いの手柄は小者に任せた。
早々に法皇の御所へ駆け付けるや、先ずは賢き御方のご無事を確かめると、御所の守備に参上したる名乗りを上げた。
大音声に
「鎌倉の前右兵衛佐頼朝が弟、九郎義経こそ宇治の手を攻めやぶりて、此の御所守護のために、馳せ参りし候へ。開けて入れさせたまえ。」
其れを邸内より、お耳にされた法皇は嬉しさの余り、参上したる者の全ての名乗りを致させよ。とのお許しを頂いた。

街道筋を一万の大軍勢が走る。緑の原野を大移動しながら、全てを喰い尽くすバッタの大軍の様にじわりじわりと大手から、又搦手から攻め寄せる白旗同士、源氏同士の攻防戦、攻めぎ合いであった。さすがに戦いの習わし、名乗り合いも、勝ち名乗りの口上も今一つ精彩が無い。
兵士達の顔も、やるせなさが漂っている。
獰猛果敢な関東武者ながらその心は繊細で、戦いによる殺生には、自分自身への申し訳が各々有るのであろう。
皇軍五、六万に対して木曽軍は数千の小勢であったが、七回程戦力を持ち直した。
哀れ多勢に無勢とうとう三一歳の若さで木曽義仲は、戦陣の露と消える事となった。敗残の将の亡骸は義経軍によって、手厚く葬られた。その日夕刻より木曽軍の敗北を、啼くかの様に都は、曾て無い程の豪雨になった。
「むむっ、良く降るのう。皆は夕餉か、良く飯は喰って居るか。そうか、今日は昔の友軍の弔じゃ。酒は足りないか、うん。皆、飲んで偲んでやれ。」心配りの細やかな弁慶だった。
宇治川で木曽軍を破るや、いよいよ平家と干戈を交える時が来た様だ。

真っ赤な黄昏の大地を一頭の騎馬が駈けて来る。
沈む夕日を浴びて、荒涼とした原野を駈ける馬も人も、相当疲弊し切っている。
草原を横切ると小川の岸辺近くの權木に駈け寄った。林の中には小川で漁をする近くの村人の作業小屋であろうか。
小屋の近くには数頭の馬が杭に繋がれていた。
騎乗の男は未だ若く一七、八歳位の精悍な若者であった。崩折れる様に馬から降りると、突然小屋の戸が軋んで開いた。
「おおっ、良介殿如何致した。」
「御免、実はいよいよでござる。」
「源氏が動き出しましたか。」
「いやぁ、木曽が落ちた。」
「もう落ちた。何と。」
「そうさ、今度の鎌倉は木曽どころではない。」
「むー、するといよいよ範頼の攻撃か。」
「いや、違うな。鎌倉の末っ子殿が主役じゃ。」
「じゃ、九郎か。そうか。」
「そう、あ奴は手強いぞ。」
「早速お館様に伝えねば。」
「敵の動きは早いぞ。其れに事態の急迫を何と伝える。む、やはり俺が行く。」
「おい、体が持つのかよ。」
「いや、何とかなる。済まぬが飯をくれ。」
「さあ、残り物じゃが、飢えを凌ぐのが大事じゃ。」
良介は小柄だが戦場で鍛え抜いた体は、全身引き締まっていて並の武士には負けない。今の平家の軟弱な武士仲間では極めて珍しい存在であった。
碗に盛られた雑炊を一気に、二杯ぐっと流し込むと垂れた前髪をさっと掻き上げた。
「さっ、行くぞ。御免。」
疾風の如く駈けて行った。

陽はもうとっぷりと更け、空には月が煌々と輝いていた。
其のとき突然彼方から、もの凄い唸り声が聞こえた。戦場に近い為か、先ほどより野犬の遠吠えが聞こえるのが気になっていた。
小屋を出てから二里程西へ向かったが、相変わらず物の気がするので、さすが強者の良介も少しづつ馬の速度を早めた。
馬も何やら周りの殺気立った気配が気掛かりらしく、どんどん足早になって来る。

「ギャウン。」
一声、吠えると左右から大きな野犬が飛び掛って来た。
良介は大太刀を匹抜くと左へ右へ払い乍駆けていった。
「ヒヒーン。」と馬がけたたましく嘶いた。
突然大きく竿立ちになると、良介は馬から振り落されてしまった。
不覚であったが其の時思わず右手に持っていた大太刀も取り落してしまった。
「しまった。」
すると「ガウウ。」
野犬がたちまち馬と良介に群がって来た。
「南無三。」
思わず一瞬眼をつむってしまった。
すると近くで「ギャウン」と犬の悲鳴が聞こえた。
と一緒に野犬がバラッバラッと散らばった。何事が起きたか良介には判らなかった。
不意に岩陰から松明が投げ込まれ、辺り一面思わぬ明りに、ぼうっと光った。

松明がぱっと、辺りを明るく照らした時、良介は我を忘れて周囲を見回すと、岩陰から数十人の男達が、わらわらと出てきた。
「大丈夫か。」
「しっかりせい。」
「辱い。ありがとうござる。」
すると、「お主は何処の者じゃ。」
僧形の大男が聞いた。
良介はぎくりとした。前門の虎とは此の事か。
どうやら源氏の一団の様だ。
「私はこの地方に住む者で、渡辺良介と申す者。この一命をお助け頂き、何とお礼を申し上げたらよろしいか。」
大男はじいっと良介を横眼で眺め乍、
「ふふーん。まあ、こちらへ来られよ。」
一同に取り囲まれ、近くの村へ連れて行かれた。
恐らく名主か何かであろう、と有る一軒の大きな屋敷で八○名程の武士の一団が、陣を張っていた。
一室に通されると、先ほどの僧が入って来た。
「まあ、お寛ぎあれ。ご覧の通りでござる。貴公は察する処、平氏方の者であろう。其の件に関しては語らずとも苦しゅうない。とは殿のお言葉。我らも知らなかった事。今、事の訳を明かす訳には参らぬ。当然殿にお眼通りも、お互い名乗りも無用。我々は先ほど貴公に関わってしまった故、不満で有ろうが貴公の御身についてはこちらの判断、処遇に委ねて貰う。」
覚悟をしていた良介は、命が有っただけ儲けものと考えるしか無かった。
「判り申した。何なりとご処遇有れ。」
すると僧は、
「主人の申すには、平氏の者であれ無益な殺生はすまい。しかも今、命を助けた者を、こちらの都合だけですぐ殺める事は余にも理不尽である。との御事じゃ。其処で貴公の事は丸一日、此の屋敷内に拘束する事にいたす。
我らは直ちに此の地を退去するが、拘束後は何をするにも自由じゃ。だが我々の行く手等は、決して詮索せぬ事じゃ。相判ったな。」
「はっ、厚き御配慮痛み入り申す。」
良介は遅い晩飯を享受した。尚里の者が一人自分を見張って居る事が判った。
恐らく彼等は源氏の一団であろう。兵の移動が恐ろしく早い。
いち早く早馬で飛ばして来た積もりが、先方は既に此処へ陣を張って居た。つくづく今の平氏には無い士気の高さを感じた。
夜が明けて朝になると、屋敷の内も外も殆ど人気が無かった。
庭の片隅で雄鶏が時を創って居た。
夕べと違い何とものどかであった。
あの一団が源氏最強と云われる義経軍か。
陽も高くなった頃、良介は手負いの愛馬を操り乍、主人の元へと旅路を急いだ。

此処、市の谷は平知章の陣地であった。
さすがの平氏も風雲急を告げる諸々の情報が、あちら此ちらの峠を越えて入って来るので、皆々騒然として来た。
特に女房共は生きた心地もしない様である。
「殿、都より早馬が来て居ります。」
「うん、よし判った。朝餉がもう直ぐ終わる。少し待たせておけ。」
昨今の平氏の勢力が斜陽となって此処の主人知章も正直な処、気が気では無い。
自分達が武士社会の領袖である事すら思い出したく無いのが本心であろう。
すっかり泰平の世の甘露に酔い痴れる習慣が付いた。其れがこの度の破滅の原因である事は、平家の心ある男共は承知している。
しかし、嫌なものは嫌である。
時が時ならばと、つくづく厭世の心に囚われる日々である。
しかし、最早猶予はならない。
「よしっ。」気を取り直して立ち上がると、広間へ向かった。
「ご苦労。ん、どうした其の格好は。」
死に損なう程の難儀な旅であった。
踞る若者は良介であった。
挨拶の口上を述べ、久々の主人を下から見上げるが、相変わらず煮え切らない主人である。主人として心に決めてから久しいが、今日の平氏の退廃振りには相当辟易している。
然しいいかげん眼をお覚ましなされと云いたい良介であった。
其の気持ちは敢えて顔には出さず、
「申し上げます。源氏が動き始めました。」

「源氏が動いた。それは油断がならんな。
木曽はどれ程の…。」云いかけると。
「殿、遅うございます。木曽などもう、何処にも居りませぬ。この世の者ではござりませぬ。」
「なに、如何致した。」
「木曽はたった一日で敗れもうした。たった一日。九郎義経です。」「木曽が敗れたのは範頼ではなく、源氏の舎弟九郎殿です。その戦の駆け引きのす速さ、疾風の如しです。」
主は少々むっとして、
「随分敵方の肩を持つよのう。」と云いかけて考え直した。
「で奴は、何処まで来て居るのか。お前に判るのか。」
煮え切らない主君に、腹立たしさを感じつつも、
「はっ、実は昨夜旅の途中で、野犬に襲われた最に遭遇しました様で。」猜疑心が強い主人に気付かれない様に、語尾を濁した良介であった。「なにっ、で如何致した、身分が割れたか。」
「いいえ、通りすがりでまあ、闇夜であれば、こちらには気が付かなかったのでは…。」
「ふーん、そうか、それが源氏か。」
はっきりしない話に、もうどうでも良くなった風だ。
良介は中空を、きっと見据え威を正すと
「源氏本軍の動きは、未だはっきり致しませんが、木曽も敗れその本軍はひたひたと、此の市の谷へ向かって居ると考えられます。昨夜遭遇致しました一団も小勢ながら、直ぐ行方を晦ます油断のならない相手でございます。直ちに全軍で敵を迎え討つ算段が必要かと存じます。
「よし、判った。しかし此の市の谷の陣容じゃ。前が海、後ろが山じゃ。街道は狭く関所を強固に固めて居れば、いっかな源氏の田舎武者でも…。」
最早、良介は聞いていなかった。
我が主人でさえも、この通りである。危機感の欠如を憂いつつ、未だ見ぬ敵軍の脅威に不安な良介であった。

「おう、韋駄天の七郎がやって来たか。どうだった、市の谷への街道筋は。」
「はっ、殿やはり市の谷への街道は、厳重な関が設けられ、言わば要塞か、砦と云う堅固な作りです。道幅も崖に阻まれ、此の関所を打ち破る事は中々容易ではござらん。」
義経はくるりと見回すと、
「さて、木村又三は帰ったか。」
すると後方に控えて居た又三は
「はっ、御前に。」
「市の谷の本陣の後背は如何に。」
「ははっ、後ろは鵯越えと申し高い崖が間近に迫って居り、とても馬で下れる処ではござりませぬ。」
「ふん。面白く無いのう。弁慶、前が駄目、横が駄目で、後ろが通れぬとなれば、全く敵の思うつぼと云うもの。何か良い手立ては無かろうか。」
やや暫くして
「はっはっはっ。皆の者、嘆く事は無い。そんな事で嘆くのは愚か者のやる事。」
「佐々木、崖は登るが良いか。また下るが良いか。」
「はっ、下るが楽ではあり申すが、しくじれば断崖絶壁故、石ころの様に転び落ちるでございましょう。」
「木村よ、土地の者は連れて参ったか。」
「はっ、これへ。」
一人の老人が連れてこられた。
「挨拶はよい、のう爺さまや、この鵯越とやらは、馬で下れぬか。」「殿様、無理でございます。鹿なら兎も角、無茶ですとも。」

突然義経の眼が光った。
「はっはっはっは。」
「殿、如何致しました。」
「おい、爺様や。馬なら無理だが、鹿ならよく下ると申したな。」「はい、そりゃあ鹿はあんな崖、庭みたいなものじゃに、でも…。」「これで決まりじゃ。皆の者、道は此処にある。此処にじゃ。爺様、案内してくれるかな。」
「はあ、儂はもう、年なので息子が、本人が良いと云うなら儂は何も云わん。」
「よし、では爺様の息子に頼もう。本人が望むなら何なりと、褒美をとらそう。」
気狂いじみて居るが、他に手立てが無いのである。道無き道に活路を見い出す事になった。
こんな時がぜん喜び出す変わり者が源氏の荒武者には多い。特に若い者には此の捨鉢な、いや運命への果敢な挑戦が大いに受けた。
年かさの者には半分諦めの者、他に負けんと意気込む者も居たであろう。兎も角源氏の侍八十名は皆、南無八幡を念じつつ、奈落の底への決行指令を待った。
茨の道無き道が続くこの鵯越に続く山野は、鬱蒼とした原生林である。日々鹿等を追い、単身狩りを生業にしている若者にとって、此の源氏武者集団の道案内役が、非常に気に入った様子で、先頭に立ち得意げに進んで行った。
「おいこら、待て小僧。はっはっはっは。素早い奴め。まるで猿の様な奴じゃ。」

草深い茂みを屶で払い乍ら、義経軍は進む。
重い鎧を着用し馬の轡を取って歩くだけでも、一般の者には重労働である。然も茂みを切り開く為に、重い屶を振り回し乍らと云うと、可成り苦痛であったろう。
行けども行けども、密林の登り下りである。
神経質な馬は途中で、人間同様に音を上げてしまう。
鵯越えとは単に、坂を下るだけではなかった。
其れだけに平氏も、よもや頭上だけはと安心しきっていた。
「おーい、未だか。」
「未だでござる。」
「よーし、此処らで暫し休もう。」
潅木を僅か乍ら払い、休憩場所を作った。
「先導の若いのを、呼んで来い。」
暫くして若者がやって来ると九郎の前に額ずいた。
「はっ、御前に。」「其の方、此の儂のやる事を見てどう思うか、申して見よ。」
「はっ。」若者は暫く考えて、「市の谷の鵯越は屏風に似て、下手をすると全軍真っ逆さまに、奈落の底でございます。」
「儂は必ず此処を下って、平氏に打ち勝ちたい。何か秘策は有るか。」突然若者は笑い出した。
「こらっ、殿の御前なるぞ。」
「まあ、良い。」
「殿様、此の様な無謀には、秘策など有りますまい。僭越でございますが、有るとすれば、殿様が申された様に、鹿が下れば、馬で出来ない事はなかろう。でございます。後は各自の用心深さと、乗馬の技量でしょうか。」
「あっはっはっは。猟師のお前達の申す事、当然である。我等が鬼神の如き気合いで、下れば必ず道は開けるものよ。者共鵯越の一番乗りは、此の九郎じゃ。後へ続け。」
「うおおーっ。」
「ぼちぼち、休んでなど居られん。行くぞ。」
そして更に一山越えると、急に前方が開けて海が見えた。
「おおーっ、海だぞ。」
思わず見下ろす崖は遥かに下へ続いていた。びゅうびゅうと海風が吹き付ける中、皆一瞬たじろいだ。
「皆の者、怖じけ付くな。先ずは儂が手本を示そう。敵は遥か眼下じゃ。良いか、此れを崖と思うな。此れは平地じゃ。駆け抜けろ。」「うおおーっ」
愈々逆落しが始まった。
大将自ら駆け降りるとなれば、後は只続くしかなかった。
九郎主従は駆けた。ひたすら斜の平地を駆けた。
勿論馬ごと転ぶ者も居たが、皆必死だった。
何物の音も聞こえず、どうどうと地鳴りのみが周囲を駆け抜けた。「おおーっ、着いたぞ。」
先ずは平家よりも、駆け降りた九郎達の方が驚いた。

その頃一の谷の平家本陣では、そろそろ緊迫感が増して来た。
大手関所の、詰めの者から援軍要請が矢継ぎ早に届いて居た。
「者共、源氏の田舎武者を、一気に打ち砕く者は居らんのか。」
「よーし、我こそ、其の大任を果たさんで済むものか。配下の者共や、いざ続け。」
なんとも出端の元気だけは一人前の若者も多い。しかし年輩の者は都暮らしが恋しい者も多く、事態の光明を願うだけで、自ら積極的に討って出ようと云う者は稀である。
源氏の荒武者と聞いただけで、
怖気を振るい嫌な顔を見せる者も居た。
其の時、遥か彼方から、季節はずれの雷鳴の轟きが聞こえてきた。この音に一番敏感な者は、女房どもであった。
「はて、この季節はずれに何事であろう。」
其れまで議論百出であった男共も浮き足立った。
「うぉー。」
叫びを上げて屋敷の外へ皆々飛び出して見ると、あちこちから矢の雨が降って来た。
「すわ、皆出会え。」
その声に反して多くの者は右往左往して得物を探し回った。哀れな者は、女房子ども達であった。
皆々御座船に乗り合して、命からがら漕ぎ出して行った。
「おいおい、男なら戦え。」
見ると女物の小袖を纏い身を隠して居る者もいる。一目散に御座船目掛けて走って行った。その逃げ足はどう見ても男衆である。
「ちっ、上手く逃げろよ。」
そう云い乍ら、苦笑いで見送った精悍な顔の男は、先夜命拾いをした、平氏では極めて珍しい、男らしい渡辺良介の姿であった。
あんな奴が平家の女房衆子どもらの、大切な運命まで変えてしまった、だらしの無い男達だ。そう想い情けない気持ちで良介の気持ちは一杯だった。

「おう、元気か。」
突然呼び掛けられて、はっと振り向く良介は驚いた。
先日闇夜の晩に野犬の群れに襲われ、九死に一生を拾ってくれた、あの大男の僧だった。
「なんだ、又随分と驚いているな。」
余り考えて居ない突然の対面に、つい戦意を無くしていた。
「拾った命を粗末にするのかい。今なら未だ間に合う。」
良介はきっと構え直すと、
「さっ、いざ勝負。」
「死に急ぐ事もあるまい。なに、宗旨変えじゃ。ほって置いても、滅ぶ物は滅ぶもんじゃ。」
良介は、はたと膝を打った。
「ほーっ、貴方様が泣く子も黙ると云う弁慶殿か。」
彼は、にやりと微笑むと、
「是は光栄でござる。天下の名だたる名僧、いや武人弁慶殿と一戦願えれば、武士と生まれて一命を捨つるとも本望。」
その頃既に周りに源氏の武士達が、集まり始めたのが気になる弁慶は、少し悲しそうな顔をして、
「人を救うのも拙僧の使命。又極楽に往生さすのも又拙僧の役目。お望みならば一戦見えたい。宜しいのか。」
念を押す弁慶に、
「お望み申す。」
弁慶は大薙刀の柄を持ち直すと、ささっと構えた。
やや遠巻きに仲間が見守る中、止む無く勝負に出た。
大薙刀を上段から斜に、大きく振り払う。間際で辛うじて交した良介は、二振り目に一声も発せずして事切れたのである。

混乱の極み市の谷の砦奥の溜まり場では、戦況の事態も知らず今だ腰を上げず論議を交す武将達も居た。
その時並び居る武将の中で慌てず腰を上げた者が居た。
「通経殿、お逃げなされ。命在っての事ですぞ。」
普段は大人しく和歌などを嗜む文人派であった。
彼は声の主を、ちらと一瞥したのみで、慣れない鎧に身を固め、屋敷の高殿へ登った。
その頃源氏の逆落しの、兵達は殆ど崖の下まで降りて居た。
あちこちの喧噪の中、通経は止める者の声も聞かず、一人片袖を脱いで、敵兵目掛け弓を射はじめた。
日頃慣れ親しまない苦手の弓であるが、必死の形相で射つづけた。すると数間先に、居た源氏武者が、
「おっほーっ。大将殿、そんなひょろひょろ矢など、我等源氏武者には当らぬぞ。」
そう相手を茶化しながら、段々と近寄って来る。
自尊心を傷付けられて、怒り心頭の通経目掛けて、遥か彼方から、一本の矢が飛んで来た。
「むっん。」
和歌では他に類のない秀才も死の運命の前には、実に呆気無く果ててしまった。
その突然の事に、先程の荒くれ者も哀れに思ったものか、済まな気に手を合わせていた。
波打ち際では、止む無く退去する女房達専用の御座船が、乗り遅れた幾人かを待ち受けて居た。
「早く来ませい。追っ手が来ますぞ。」
慌てて足を踏み外し船の端から、水の中に落ちる女も居た。気が気で無いのは水夫達であった。
「もう、良いであろうに。早く出ぬと間に合わん。」
陸の上も水の上も大変な騒動であった。又平氏の男の中でも、互角に戦う古兵も多少居た。
多くの兵の頼りの無さに、失望しつつも果敢に戦いの中に進んで行った。
「何の源氏の田舎侍に、我等が負けてなるか。」
「やい、関東の田舎武士は、そち達の事か。」
「ふん、飛んで火に入る何とやら、さあ我こそは源氏の重臣熊谷次郎直実が家臣、中でもその人在りと云われた、佐良吉右衛門でござる、勝負じゃ。」
猫の額の様な市の谷は上から義経、横から源氏本体に突き込まれて、阿鼻叫喚の巷となった。

人は「阿〜っ。」と産声を発し乍この世に生を受け、やがて「吽」と言葉にならぬ声にて死すると云う。
誠に儚いものである。
敵味方双方心ある多くの武将を失い、弁慶の心は暗かった。
若き日京の都で、千本の刀を奪う悲願は、今戦場の修羅を借りて、何人の生くべき命を救うかの悲願へ、知らず知らず変転していた。其れは戦いに明け暮れた此の時代、何とかして多くの有能な人物を、殺さずに残すかと云う、主人義経の密かな願いにも重複している様だ。
周囲の源氏武者も弁慶の心を知ってか、無用のはしゃぎ振りは見せなかった。
平氏の一族は、多くの同胞の死を残して、海の彼方へ去った。
自分自身を見失う時、人は身の回りはおろか、如何に多くの大切な物を失うものであろうか。
いつの世にも泰平の夢に胡座をかき、分不相応の驕りを顧みない者、他者を労る心の無い者は、何れこの滅びの道を歩む事になるのである。

「阿闍梨様はこちらにおいでか。」
「弁慶、参れ。」
「はっ、御前に。」
「そなたも変ったのう。」
市の谷の戦の後に、仮の祭段が整えられ、御魂が安置された。
一部焼け焦げた平氏一族の仮の住まい跡である。
義経は昔、鞍馬時代、僧籍にあった多くの人々から、硬・軟の温かい愛情を受け育った。
其の中で祭事の大切さが知らず、身に付いた様である。多くの武将の中でも慈悲と慈愛の情に恵まれた人物と云える。
彼は人間として為すべき事は、決して疎かにしない。
此処に後世に人望を残す要因があるのであろう。
広い斎場には義経を始め、義経配下の武士が居並んで居る。
義経の肝いりで、源氏、平氏、両族の戦死者の御霊が前方に祭られていた。
この市の谷の迅速な攻撃が始まる前に、義経と弁慶の機転で慰霊が手配されていた。
勝敗は武士の習いと申せ、名も無く異国の地に没し、朽ち果てる事は寂しいものである。
死する者は敵味方の隔て無く、祭る所存であった。
特別に叡山の阿闍梨を、内々に招聘したのも義経の考えであった。
平家追討の旅はまだまだ続くであろうが、同じ武士同士の礼儀として、義経はそうせざる了えなかったのである。
場内には馥郁とした香の香りが立ちこめ、皆の涙を誘った。
青二才の頃の弁慶を良く知っている阿闍梨は、只成長した若者を慈愛を込めて見つめて居た。

市の谷より四国へ流れた平清実の元へ、風の噂が届いた。
「殿、昨夜港街にて、面白い噂を耳に致しました。」
「む、聞こう。」
「はてさて、真実かどうか判りませぬが、街へ出入りする村上水軍の者と、最近馴染みになりまして。」
「うむ。如何致した。」
「先日我が方、市の谷では手痛い思いを居たしました。その恨み今だ、覚めやらぬ事ではありますが。」
「うむ。」
「あの戦で、敵の真実の首領格は御存知、九郎義経。戦の終了後に我々平氏、又源氏両軍。敵味方の隔て無く、あの地にて手厚い慰霊を執り行ったとの事。」
「其れで、どう致したのじゃ。」
「何でも京の都の叡山より、内々で阿闍梨様を招聘されたとの事。皆々懇ろに弔われたそうでございます。」
「そうか、敵乍ら天晴れと云いたいが、我等に油断を与えんが為に非ざるか。」
忠心から述べたつもりが、逆にこちらの腹まで探られそうで、忠言から述べたまでであったが男は思わずむっとした。
「我等平氏と源氏は、古来より賢きあたりの守護に永きに渡って、共に働いて参りました。過去に色々と確執が多く、今日に至ったものなれば、同じ武士同士、恩讐を越えた礼儀は、認めねばならぬと。」「お前は何時から、源氏方の贔屓になり下がったのじゃ。」
其処まで云われては、配下としては黙するしか無かった。
清実の部下の毛利某は、ぐっと堪えて下を向いてしまった。
「其の様な事を今どき。真に受けていたら、必ずや同じ轍を踏むであろう。甘い期待は禁物じゃ。」
つくずく思った。大化の改新の公武共に力を合わせた事実は、遠い過去の夢物語りになっているのであろうか。

市の谷で戦の後始末を終えた、数万の兵士は一旦、凱旋の帰途に着いた。取りあえず京へ立ち帰り、賢きあたりへ平氏征伐の報告をせねばならなかった。
その帰路の道々、不思議な表情をした男が居た。
黒毛の名馬に跨がった壮年の武将、義経のお目付役、梶原であった。
彼は一人馬上で考え込み、時々上の空で危うく落馬しそうな時もあった。
この度の戦で、市の谷の坂落しに、最初から反対だったのは、勿論梶原であった。
但しこの件に関しては、何故彼はその意志表示を翻したか。
それは恐らく源氏の武士として、臆病風を吹聴されるのが迷惑だったからであろう。
しかし、この戦の後始末には大いに反対論者であった。源平の果し合いが未だ白黒付いていない間に、味方なら兎も角、どうして敵方の慰霊まで、せねばならないのか。
是こそ源氏武士の士気の弛緩に関わるのである。
その様な甘い、弱腰でこれからの武士世界の仕置きが成るのであろうか。
又禁裏の許諾が得られたといえ、例え内々でも叡山の阿闍梨まで呼んで、その様な大事を決行するのは、行き過ぎであろう。
しかし、梶原の意見は当然の如くかわされた。源氏の大事と思い述べたまでで、是では自分としては、兄頼朝へ再度異論を伝えねばならない。
その事が梶原自身の忠節な勤めの表現であったろう。
等と色々考えを巡らせている内に、仲間の義経を売る様な自責の観念とで悩み、気が付くともう、京の宿舎前であった。
その夜、梶原は頼朝に久方振りの手紙を認めた。

季節は二月の半ば、鎌倉の春は優しい陽光が降り注ぎ、鮮烈な胸に染み入る様な浜風が吹き抜ける。
もう其処此処で鶯が鳴いている。頼朝の屋敷では早朝から、下男達が全ての戸を開け放ち、隅々まで拭き浄めている。
やがて頼朝公が出仕しようとして居ると、小姓の一人が
「殿、京の梶原殿より使いの者が。」
「よし、通せ。」
小姓は政務を執り行う詰所へ、頼朝公の予定変わりを知らせに行った。
「挨拶は良い、何事か。」
梶原の使いは、頼朝への報告書を手渡した。
市の谷の戦況報告と其の経過、及び戦勝後の後始末、特に最後には梶原からの、平家戦死者慰霊に関わる処理の不当性を朗々と書き綴ってあった。
さすがに初めは、鷹揚に読んでいた頼朝の顔は、次第に苦笑に変わり、最後には燗に堪え難い表情になった。
読み終わると、やや落ち着きを取り戻し、冷静な表情に戻った。「ふん、これだけか。」
暫く天井を睨んでいたが、やがて返書を認めて、使いを帰した。「九郎も九郎なら、梶原も梶原じゃ。」
不機嫌な顔をすると小姓を従えて、政務の座に引き上げて行った。多忙な政務に加えて、肝心の都や遠くの戦地での始末が、自分の手を離れた処にあるもどかしさに、焦燥感を覚える頼朝であった。

京の桂川上流、保津川の流れに沿った大地に亀岡がある。
更に奥まった草原に、最近馬場が出来た。
馬場の側には馬小屋が数棟建てられ、三十頭程馬が飼育されている。土地の者にも余り知られていない事である。
牧場の近くの草刈り場に、数名の農夫と馬喰が、飼葉用の草を刈っている。
昼近く迄かかって、相当量の飼葉が刈り終えた。昼の休憩となって、小柄な一人が休憩の小屋に引き上げた。
汗を拭き皆の帰りをもうそろそろと待っていた。
突然小屋の戸が開け放たれた。
「居るか、おせん。」入って来る者が居た。
「まあ、お殿様お変わりなく。」
「うん、元気じゃ、お前も達者か。はっはっは。」
突然の再会に、おせんは只々感激の涙であった。いつも孤独だった、おせんである。
今も一人であるが、待つ人が居る。
自分にとって愛する人を待つ事は人生の大切な時間であった。
「恙無く…。」
「うん、元気じゃった。」
「おせん、相変わらずよのう。奥州の果てから、京の都まで来て女子のそなたが、未だに馬の世話も無いであろう。」
「ほほほ。」
泣き笑いの顔の中で、
「殿様は馬の臭いが、お嫌いですか。」
「なんの、儂など年中馬の上で寝ておる故、馬の臭い等よう判らん。」「ほほほ。毎日、馬の下の世話も致しております。」
「馬は私の宝物。」
「ふん、で其の次は何じゃ。」
「殿様でございます。」
「何を、こらっ。性懲りも無く。こいつめ。はっはっ。」
「ほほほ。」
「私は赤い小袖を身に付けて、奥女中の中で暮らすのは嫌でございます。」
「馬は人間と違い、正直で優しい眼をしております。」
「……。」
「殿様は別です。大好きです。」
「そうだなあ、人は馬と違い、業が深い。儂も馬にでも生まれれば良かった。」
「そんな悲しい事は、云わないで。殿様は人のままが良い。」
「はっはっはっは。判った。今夜は京の儂の宿舎へ参られよ。」
「はい。」
愛らしい笑顔が溢れる様である。

春爛漫の京の都の河原辺に早朝から、沢山の人手が集まって来た。畿内各地から物見高い人々、老若男女、町人、農夫、漁師、商人、勿論武士も子供も、大勢押し寄せた。
「おい、権助さん。今日のこの騒ぎは一体何事じゃ。」
「いやー、凄いね。」
「なんだい、教えておくれよ。」
「最近、都の守護になられた源氏の九郎様を御存知ないかい。」
「おーっ、知ってるよ。牛若丸様だね。私はあの人が大好きなんだよ。」「知っているのかい。」
「いーや、会った事は無い。けど、其れからどうしたの。」
「平氏の御一族がね、例の如く都を追い出されちゃったろう。」
「うん、その後が木曽の何とか、ああ、義仲様。」
「そう、中々太平が長続きしないので、今度の守護の九郎様が、次の平氏の征伐の前に、ぱっと明るく、華を咲かせて、活気付けようとの御配慮だね。」
「嬉しいね、わくわくするよ。」
「今日は、源氏始め各地から、沢山のお侍がやって来て、乗馬の腕試しがあるそうじゃ。」
「それは、面白そうじゃな。」
河原の試合場には殿上の方々も、御招待されて居るとか。
「天子様もいらっしゃるのかしら。」
「其れは、ちょっと判らないが、きっと、お慶びでいらしたと思うよ。」
「さあ、天下泰平、天下泰平。」

陽が少し高くなった頃、京の市街地の方面から色どりも鮮やかな、緋色縅やら武者絵巻から抜け出た様な行列がやって来た。或者は源氏、また或者は、平氏を伏せた者も居たであろう。
皆晴れやかに馬場目指してやって来た。おおよそ二百名程の武士が集合した。
やがて大きく東西に別れ、中央に設けられた三つの台の上から金の札、銀の札、銅の札を逸早く取り合う競技であった。
一番太鼓で二百名の騎馬が、広い馬場を駆け廻った。
二番太鼓で止まり、三番太鼓で勇壮な札取りが始まった。
手前に陣取った神官の合図と共に三回行われた。
最近はやたらに血なまぐさい出来事が続く最中、久々の晴れやかな事で、周辺は非常に盛り上がった。
噂によると法皇様もお忍びで見えられたとか。
やがて大盛況の内に祭りは終了した。民心に残る戦渦への不安を鎮めるには、これから相当時間と労力が必要と思われる。
義経も殿上人も心の中に一つ気掛かりがある。
其れは云う迄も無く平家の若手の勢力による台頭であった。
斜陽の平家とは云え、まだまだ其の勢力は、西日本に温存してある。頼朝より更なる平家攻略の指令は、出ているのである。

平治元年暮れ、近畿は大和の山道を二人の女が歩いている。
一人はどことなく気品のある武家の女房。
そしてもう一人は乳母であろうか。
降り積もる新雪に四人の足跡が、遥か後方へと続いている。
女達には二人の連れ、いや正確には三人の連れがいた。
大きな女達の足跡に寄りそう様に、可愛らしげな二人分の足跡は、未だ八歳と六歳の、いたいけな童子のものであった。
あとの一人は女主人の懐に大切そうに抱えられていた。
二人の童子の手は乳母にしっかりと握られていた。
童子は時々立ち止まっては乳母の懐で、凍えた手を温めて貰った。暫く歩いては度々足を取られて転ぶ姿は、哀れなものであった。「寒かろのう。耐えるのじゃ、父さまの子じゃ。」
「うん。寒いけど、寒くない。」
思わず泣き笑いの女房達であった。
辛く悲しい彼女等の行進は麓の里迄続いた。
此処からは各々六波羅からの迎えの馬があった。
迎えと云っても鬼の六波羅である。平家に非ずば人に非ず。と人の云う栄華の城である。
五人は長く厳しい旅路の果て、遂に六波羅に曳き出された。
平家にとっては憎い敵将の落し胤が、揃って曳き出されたのである。雪を被った大門は奇麗に掃き清められ、もの珍しく五人を眺める野次馬や、不運な一家に哀れみの、まなざしを送る訳知りが犇めく中、此れ見よがしに追い立てられた。

広い長い廊下の末に大広間が有り、一族郎党が居並んで居た。
女房常盤御前は死にたる如く、蒼白な面にて平伏した。
何故隠れ家より、辛い裁きの庭に罷り居でたのか。
其れは彼女の母が六波羅の捕縛吏に、常盤の行方を巡って拷問を受けて居ると云う知らせを受けた為である。
如何に常盤ならでも、身を棄てて命乞いに来たであろう。
広間の一座には、平家の棟梁である平清盛を始めとして重盛、宗盛など平家一門の重鎮が居ならんで居た。
常盤にとっては生きた心地も、しなかったであろう。
「これ女。其の方何故、此処に参ったか。」
余りにも恐ろしく気を失いかけた常盤が、直ぐに返答出来ずに居ると、泣き伏す女を尻目に、宗盛であろうか、
「此の童共も後、七、八年もすれば我々にとって、害毒の種。悪因は早々に刈り取るのが上々。のう、父上。」
意地悪気なまなざしで、清盛公に視線を送た。
清盛公は息子の云う通りとは申せ、大の清盛程の者が、一族の安泰と源氏怖さで、この様な幼子のか弱い命を絶つ事は容易いが、世間をはばかる程の羞恥心はあった。
「儂は入道故、その様な血生臭さい事は好かぬ。おまえ達に任す。」入道清盛は不快そうな顔をして即決は避けた。
すると隣の部屋との境の戸が静々と開いた。
一人の老女が入って来ると、
「おおっ、池の禅尼でござるか。如何が致した。」
「入道殿、後生でございます。此の幼い童共の命、私に免じてお救い下され。この様な赤子の手足を捻っても、入道殿の得には為りませぬ。因果応報と申しまする。我々平家の安泰を、お考えでしたら尚の事、無慈悲な事は、是非ともお止しなされ。」
「そうじゃ、此の幼子達は寺に預け、仏弟子として亡き者共の菩堤を弔ってくれれば、又善業を積む事相違無い。のう、のう、のう。そう致そう。」
さすがに女親ともなれば、とても此の様な無慈悲なものは、見聞きに耐えぬらしい。
常盤の必死の命乞いも、池の善尼の口添えにて漸く、効を奏したものであった。
幼子達は雪降る中を、又々散り散りに引き裂かれて行くのであった。
京の冬は寒い。
其れにも増して此の親子の心の中は、厳しい絶望其のものであった。
「母上っ。母上っ。」
「母上ーっ。」
「母上ーっ。」
「…はっ。」
涙で夜具が濡れていた。
真っ暗な部屋の中で、九郎は暫し空を眺めていた。 

その夜義経は宿舎にて寛いでいた。
「おせん。」
「はい。」おせんは遠慮勝ちに寄り添った。
「こちらへ来い。」
「はい、殿様。」
「束の間であったが、又行くぞ。」
悲しそうな目をしているが、おせんは頷いた。
「はい、心得て居ります。」義経は又悲しそうな目で、
「済まない、正妻として迎える事は、難しいままじゃ。」
「はい、存じて居ります。」
「今の侭でお帰りを待ちとうございます。」
「すまぬ、おせん。」
何処ともなく、遥か彼方から、悲しげな笛の音が聞こえて来る。「戦の無い世界へ参りたいのう。いや、そんな世の中にしてみたいのじゃ。」
「はい。」

文治元年二月神戸の渡邊に源氏の武将が集合した。
余談ではあるが、源氏には渡邊姓が多い様だ。
極めて古い系譜の一つであるが、最も有名な武人に渡邊綱が居る。この神戸の渡辺橋の袂に渡邊一族が住んで居た。
それが一族の根源だそうである。
さて平家は源氏軍が引き上げた後、平家再追討の準備が整わぬ内に、讃岐の屋島に根拠地を置、再興を目指した。
「我らの動きが一切、遅々として進まぬ故、最悪の事態が来たようじゃ。」
評定の口火を切ったのは義経からだった。
平家を攻めるにも相手は海の向こうである。そこで今回の戦は当然船戦、海上戦となる。
源氏は元々騎馬軍団を主力とし、船戦は余り手慣れているとは云えない。そこで船の備えをどうするかで、梶原から提案があった。
「我ら源氏は船戦は不慣れによって、進退に好都合な逆櫓を立てては如何がなものであろうか。」
すると血気盛んな義経は、
「我ら源氏の戦は前進を以って潔しとす。初めから退却を考える様な逆櫓等は、源氏らしくない弱腰の戦略であろう。」
若いとは云え、こうはっきりと自分の提案の腰を折られては、いっかな武人と云えども、其の心持ちは穏やかではなかろう。
皆々義経の力強い言葉を頼もしく感じ喝采を送ったが、此の事はやがて彼の人生を狂わせた要因の一つになったと云えよう。
いざ、出陣となると海が大荒れである。
此れではとても船は出せませんという水夫達の言葉に、
「少々風が荒いと云えども、此れは向かい風に非ず、追い風は我々の戦に味方するであろう。」
と強風を押し切って船出した。
元来無謀な事に挑戦するを以って狂喜する反骨精神の持ち主故、行う事が全て人の意表を衝く。
常識では三日の処をわずか数時間で渡り切った。
「いやっはっはっは。やったぞ、皆の者。おい、山岡。ここの浜が阿波の何処か調べて参れ。」
早々に数名の者が、浜の近くに探査に出かけた。半時程して彼等が帰って来ると、真夜中に摂津の渡邊の浜を出て、早朝には阿波の勝浦へ着いていた。
一行は五隻に分乗し、総数一五○名の小勢であった。その後たった二日で陸路の一五、六里を強行し、讃岐の屋島へ攻め寄せた。
屋島は瀬戸内を挟み倉敷の向かい側で、直ぐ沖合いに小豆島が見える温暖な地であった。
屋島と云っても島嶼ではない。西に高松、丸亀が続くこんな穏やかな瀬戸内でも、突然大荒れに荒れる事も有る。
平家もまさかに、此の様な悪天候の夜に、敵が攻め寄せるとは、思いも寄らなかったであろう。
市の谷と云い、屋島の戦いと云い、義経と云う人物は、味方の源氏方から見れば、何とも頼もしい存在であるが、方や平家から見ると、悪鬼の如き地獄からの使者。
飛んでもない阿修羅の如き猛将であったに違いなかろう。
平家は不意を討たれて動揺し、一目散に逃げようとする。
しかし、平氏の中にも猛者が居って、只逃げる者ばかりでは無い。相手が小勢と見れば、大将の義経のみを狙い討ち、義経も忽四方より、弓矢の洗礼を受けた。
右から、左から矢が雨あられに吹き付けて来た。
此の時、遠く奥州の平泉から、藤原秀衝の命により、義経に付き従って来た佐藤継信・忠信兄弟が、主君の生身の盾となり、継信は敢えなく敵の矢に倒れてしまった。
義経その手を取ると、
「主人の御命に代わって討たれた事、今生の面目、冥土の思い出。」と苦しい息の下から云うと、喘ぎながら事切れた。
此れを聞いた将軍義経は耐え切れず、さめざめと泣いたという。


その夜義経軍は、屋島の戦場近くで夜を明かす事となった。
小高い丘の北面に小さな寺が在り、境内に陣を張った。
境内の中庭に円陣を組み、見張りと諜報は怠らなかった。真っ暗な闇の中にパチパチと、火の爆ぜる音のみが響き、その灯りに寺の古びた鼠色の壁が浮かび上がっていた。
「殿、何時迄塞いでござるか。佐藤継信の事、武士の逝くべき定め、寧ろ誠に天晴れ。惜しんでも仕様の無い事でござる。
継信の勇姿を思い出に止め置き、決して忘るるべからず。後は只、前進のみあるべきぞ、殿。」
「むぅ、うお〜っ」
義経は悔しさに、滂沱の涙を流し、地団駄を踏んだ。
「殿、如何なされた。」
「殿。……伊埼、来い。」
弁慶は突然倒れた義経の鎧を脱がせ、伊崎秀次に着替えさせ、何やら耳打ちをした。暫く続いた強行軍と、忠臣を目の前で死なせた心の痛手に、さすが人一倍強靱な将軍義経も神経が疲れ、人事不省で昏睡状態に陥った様である。

京の都も春ともなれば、妙に艶かしく、春霞に包まれた街のあちこちの盛り場では、今を春よと平家一門が、栄華の極みを満喫していた。
「平家に非ざれば人に非ず。」
後の世に平家物語として、奏楽と共に語り継がれた一門の栄枯衰勢が、正に是であった。
一門の非を揚げつらえば、忽ちの内に捕縛の縄に付いた。人を人とも思わぬ世相に、人心も荒れ放題であった。

そんな或夜の事、京の五条の寂しい橋の袂で、月を背にして一人の怪人が佇んで居た。
其処へ酒に酔い痴れた、二人の侍が、通り掛かったのである。
「あーあ、人に非ずか。ははは、平家様が…平家。ふははっ。」
橋の欄干で足を止め、一時宵を醒まして居ると、がらん、ごろん。と足駄の乾いた音が響いて来た。
長い木造の橋全体に気味悪く響いてくる。思わずぎょっとして二人はそっと振り返った。
一人の大男がずんずんと近付いて来た。
二人は無気味さに、がたがた震えながら、なるべく相手が、何事も無く通り過ぎて欲しいと願って居ると、背後でぴたりと止まった。そして大男は
「ぷはーっ。」と吐息をすると、
「わはっはっはっはっは。」と大音声に笑い放った。
「儂は、京一番の悪法師弁慶じゃ。其の方達、その腰の物を置いて参れ、嫌なら覚悟致して掛かって参れ。」
と叫んだ。是が兼ねて噂の高い、荒法師弁慶であったか。
と気が付いた時は、もう遅かった。身の毛のよだつ思いで、わっ。と一声叫んで飛び上がった。
世の中を牛耳って居る、平家一門と云え、一人一人は弱い者である。概ね凡人の集まりである。
誰も見て居ないのを確かめる余裕も無く、刀を置いて、脱兎の如く素早い早さで逃げ去った。
「愚か者め。」
言い捨てると、余りにも腑甲斐無い様に、苦虫を噛み潰した表情で、置き去られた刀を拾い上げた。
其の時ふと、人気を感じて、法師が振り返ると、橋の向こう端に、小さな人陰を見つけた。
「どうれ、飛んで火に入る、何とやら。三匹目か。」

小さな人影は、歩き乍ら横笛を吹き、弁慶には何やら良く判らぬが、飄々と良き一曲を奏でていた。
女物のかつぎを装い、怪しい雰囲気を醸し出していた。
こちらに気が付いては居る様子であるが、なかなか歩みを止めようとはしない。
「ふん、童一人か。まあ、何か金目の太刀でも持って居る様子、其れでも取り上げてやれ。」
そう考えている内に相手は目鼻の先まで近付いて来た。
何と物怖じしない童か。
「これ、童。こんな夜更けに、たった一人で徘徊するとは、もしや、夜叉でもあるまいに。儂が恐ろしくは無いのか。」
精一杯威嚇してみたが、相手は恐がりもせず、答えようともしない。じっとこちらを見つめる姿は、小柄であるが七つ、八つの幼児では無さそうである。
そう思うと弁慶も良心の呵責から、多少なりとも解放された。
「小僧、刀を持って居ろうが。其の脇差しを頂戴したい。」
すると、きっと睨み返した少年は、
「欲しいと云うなら、恵んでやらぬでも無いが、其れなりの礼儀と云うものがあるであろう。」
カッと逆上した弁慶は、
「何を小僧め。」と云いつつ、先ず相手の襟首を、むんずと捕まえにかかった。其の瞬間、少年は、さっと飛び跳ねながら、弁慶の脛と鳩尾を、嫌と云う程蹴り付けて、後方へ飛び下がった。
「な、何と素早い。」
弁慶は更に大薙刀の柄で横に払うと、ぱっと飛び上がり其れも躱した。大人気無いと思いつつ、弁慶は橋の欄干の上に飛び降りた少年の上に、大薙刀を振り下ろした。
一刃両断に切り捨てるつもりは毛頭無かったが、其れで相手の動きを止めるつもりであった。
しかし、弁慶は思わずしくじってしまった。大事な薙刀を欄干に、しっかりと斬り付けてしまった。もう、抜こうにも抜けず、非常に焦ったが、逆に自分自身の動きが止まってしまった。
「しくじった。」
と思った瞬間、欄干の上に舞い降りた少年は、弁慶の頭と胸目掛け、「えいっ。」
とばかりに蹴り下げた。思わずもんどり打った弁慶は、羞恥心で直ぐには立ち上がれなかった。
「どうした、悪坊主。」
にやり、と笑った其の清清しい笑顔に、弁慶は上向いた侭、思わず苦笑いをしてしまった。
「わっはっはっは。」
「わっはっはっは。」

「殿、殿。」
大きな目玉が心配そうに、自分を見下ろしていた。
「おう、弁慶か。」
「おお、お気が着かれましたか。」
「此処は何処じゃ。」
「屋島でござる。」
「嗚呼、夢か。」義経は寝汗を拭い乍ら、屋島の戦場近くの古寺に陣を敷き、本堂に寝かされて居る事を思い出した。さっと起き上がり、「佐藤継信は如何致した。」
早速無念の忠臣が殉死した事を思い出し、屋島終了後、手厚く弔った。其の日も戦いに開け暮れ、やがて夕刻となった。
ふと見ると沖の平家の御座船より、一艘の小舟が漕ぎ出された。
汀近くへ漕ぎ出された。
すると小舟の上には歳の頃十八〜九歳の女が乗っていた。小舟の上に立てた竿の上を見よと指差した。
竿の上には一差しの舞い扇が、風に吹かれてゆらゆらと揺れて居た。様子からしてこの扇を弓で射て見よとの事らしい。
岸辺に居た源氏武士達は、如何したものだろうと、互いに顔を見回していた。
義経は早速源氏の名誉に賭けて、あの扇を射落す者は居ないかと尋ねた。
射れば武門の誉れ、出ずば源氏一門の名が廃る。
そう、た易く引き受けられない事であった。誰か居ないかと云う主人の尋ねに、誰ともなく那須余一なればとの声が出た。
間もなく余一御前にまかり出て、自信が無き旨を申し上げると、これだけは源氏として、引き下がる訳には参らぬので、是非とも射て欲しいとの事であった。
「其れでは、もう一人弓の名手、余一の弟兼光を共に遣わそう。
二人して同時に射て見よ。」
との言葉に、余一心を強くした。
日暮れで時も猶予が余り無い為、二人は浜辺で試射を行った。
見事試しの的を射止めた二人は愛馬に跨がるや、水際まで乗り入れると、自慢の弓をきりきり扱いた。
南無八幡大菩薩、又天地神明の名を念じ、扇の真ん中を射させたまえと、二人は強く祈った。
太鼓の音と共に大きく弓を引き絞り、同時に蕪矢をひょうと放つと、矢は「びょうっ」
と浦全体に長い唸りを残し、扇目掛けて吸い込まれて行った。
矢は二本共各々扇に当ると、扇は夕日に紅く染められた中空でぱっと、音も無く散った。
其の見事さに沖で見ていた御座船の平家からも、陸の源氏からも、やんやの喝采が響き渡った。

其の晩義経は深い眠りに就いた。荒涼とした暗い海、水平の彼方から一面の黒雲が湧き上がると思いきや、三万の敵軍団の船であった。
次第に近付いて来る軍船には、顔の無い人々が乗り合して、こちら目掛けてやって来る。義経は少しも怯まず配下を指揮していると、やがて船同士がぶつかり会った。
敵方の武者が「わいわい」と声にならぬ声を出しながら、どんどん押し寄せて来る。
さすがの剛胆な義経も薄気味が悪くなり、少々たじろいでしまうと、やがて戦況は混沌として来た。
敵方の女房共は、幼い子供を道連れに入水して海の藻くずとなり、敵味方、組んず解れず、共に海の底に沈んで行った。
「待てい、待てい。」
男共は兎も角、女子供も次から次へと争う様に止まらない。
「あっ。」
「殿、如何なされた。」
此処は丸亀の宿であった。
海を渡れば本州である。弁慶は心配そうに義経の顔を覗き込んだ。「殿、如何なされました。只今、四天王以外は、遠ざけて居ります。」「近ごろの殿は、何やら塞いで居る。長丁場の戦なれば、相当お疲れでは。常日頃、お口を閉ざし申し難き事、是非ともお申し下され。我等腹心の者なれば、口外の恐れはござりませぬ。」
意を決して義経は、
「弁慶、皆の者、儂は奥州、平泉を出てより、此のかた武士として兄上の手となり、足となって、此の地に人の生くるべき王土を開かん為、尽して来た。それも配下の皆の者の忠義の支え無くては無かったがのう。」
「儂はもう、殺生は嫌になってしもうた。だが今、源氏の大将として平家追討の役目を捨てる事は出来ぬ。如何致すべきか。」
「はっはっは。殿、嫌になったでは済まされぬが、嫌々殺生をするのも地獄。しかし、其れを捨てて逃げるも又、地獄でござるぞ。」「判っておる。」
「殿が気弱になったとは、弁慶露も思いませぬ。皆もそうであろう。」一同頷いて見回した。
弁慶はにやりと一人笑った。
「殿、一つだけ、方策が在り申す。」
「在るであろうか。」
「もう、一人殿が居れば話は進む。」
「な、何と。」
「殿、殿が市の谷にて拾いなされた若者が居ります。」
「鷲尾三郎義久か。」
「如何にも、殿に似て中々の元気者。元々猟師の出乍ら、先祖は武士。思いの他聡明なれば、腹心次第で何とかやり通せるかも知れませぬ。」
「ほれ、声色も似て居るし、猟師なれば弓も上手じゃ。」
「少々弓の構えが粗野でござるが。」
「しかし、顔が割れるであろう。」
「なんの、九郎義経様、戦地にて、奇病をお患いになり、素顔ではお目にかかれませぬとして。何とか切り抜けさせましょうぞ。」
「それと、もう一つ。新たに四天王も設けましょう。」
「皆、済まぬ。」
主人の思い余っての心境吐露で、思わぬ展開を呈してしまった。

兎も角、義経は瀬戸を渡り、更に長門の壇の浦へ源氏を集結して、一大決戦を展開した。
源氏数万の兵の内、義経の素顔を知る者はいと少なく、梶原等の幹部達は、怪しみ乍らも此処迄来て、事態を悪化させてはならじと、顔の見えない大将義経は転戦し続けたのである。

或日おせんはいつもの様に、朝早くから馬達の世話をしていた。
牧場で飼葉を与えていた。牧舎の向こうで、人影が見えた気がするので、様子を見に行った。
誰も居ないと思い、はっと振り返ると戸口には、あの懐かしい九郎の笑顔があった。
「おいででしたか。」
おせんは全身で嬉しさを表したかった。
彼に近付くとすっと、戸外に出て行った。「あっ。」
と云いつつ、後に続いて外へ出ると、外はもう夕焼けであった。
二人連れ立って馬場の脇を抜け、坂を登り、丘の上に歩いて行った。おせんは不思議に思い、途中何度か話しかけた。
しかし返事は無かった。丘の上迄登りつめると、牧場一帯が錦絵の様に輝いていた。
数十頭の馬が草を噛み、長閑であった。
遠く京の街の方迄紅に染まって見えた。
「美しいものでございますね。」
おせんが振り向くと義経には顔が無かった。
と思う間に、愛しい君の五体は霞の様に、中空に消え去ってしまった。「あっ。」
と叫ぶ自分の声で、おせんは目が醒めた。今でも胸がどきどきと高鳴って心なしか、体のけだるさを覚えた。
すると、隣の部屋から、おせんのお付の下女ゆりが、心配そうに起き出して来た。
「如何なさいました。」
「……。」
最近は義経の夢を良く見るおせんである。何時もの夢の中では、九郎は元気な笑顔で出て来るのだが。
今夜のあの人は…。
「疲れたのであろうか。」
いつものおせんは、元気者で此処でも評判であるが、最近は良く考え込む姿が見受けられた。

戦いの無い世界に暮らしたいと申せ、現実の世は、其の願いとは遥かに遠く、一旦武士と生まれれば、其の業の流れの行く末迄、流されるしか生きる道は無いのであろうか。
九郎は若年、牛若丸として育ち、武芸の家に生まれ落ちた宿命として、その後実に多くの波瀾に曝されるが、先ず幼児期に僧籍に入る事となったが、環境が合わず寧ろ武芸に秀でていた。
物心が付き自分の宿命を知るや、又々殺生の巷に身を沈める事になる。しかし、人間は元々争いが本性に非ずして、人生を重ねる内に自然、平安を求めるのが成り行きらしい。
どう、人が其の生き方を論うとも、本人の生き方迄真に変えられる訳では無いらしい。
あくる日の早朝、丸亀の空は晴れ晴れと高く輝いていた。
「殿、ご用意は如何で。」
「うむ、良い。」
此処、丸亀の港に七名の山伏が現れた。一人は巨大な体躯が目立ち、今一人は小柄で聡明そうな行者であった。
「西国では又戦が激しかろう。」
「はい。でございましょう。」
一同は鳴門から淡路島へ渡り、明石に着いた。
「おう、六甲山でござりますな。暫く行くと芦屋、西宮でござる。しかし、立場が変わると、見る景色も又、世間も違って見え申す。はははっ。」
「おせん殿は如何致してございましょうか。」
突然の話しに義経は顔を赤らめた。
戦場を離れ、責任のある立場から去った其の後ろめたさから、個人的な事は暫く考えない様にしていた。が、巨大過ぎる重圧から放たれると、つと思い出される事は、都の片隅に置き去って来た妻女である。
個人の立場に立つと、彼の人生の処し方を卑怯とか、軟弱とか決して攻める事が出来ようか。
又武士の沽券のみを考えて妻子を顧みる事を放棄する事は、時と場合によって、人間味を失わせる事になるであろう。
「先ずおせん様の消息を確かめましょう。」
「其れは其れとして、殿は今後どうなされます。」
「奥州へ参りたい。願わくは藤原秀衝殿の遺志を大切にし、奥州仏国土の再建をお助け致したい。」
「おう、其れは良い。この弁慶も及ばずながら尽力を惜しみませぬ。」

さて、屋島の戦いでは平家軍も相当死に物狂いで、仕掛けて来たが、増して壇の浦ともなると、其れは語るに尽きせぬ滅亡のドラマであった。
或時は義経のみを集中的に、生け捕らんとしたり、弓矢の雨の洗礼を浴びせたりで、さすがの源氏の荒武者達も、遠い異境での空しく、終わりの見えない戦に、厭世感の虜になる者も出て来る。
「何故こうまでして、同じ武士同士が戦わなくてはならないのか。」或評議の中で、配下の者から思わず不満が出た。
其の時、義経は奇病にて、顔面を布で被っていた。躯の不調を押して語った。
「何故、此の度の長い戦があるか。皆は判らぬか。」
其れは、まるで義経に鬼神が乗り移った様であった。
「是は鎌倉の兄君、いや頼朝公も思いは同じである。平氏、源氏、元は同じ禁裏守護の武士である。其れが何故、争わねばならぬか。憎いからか。宿業からか。其れもあろう。しかし、禁裏からその守護を任された、我等武士の勢力争いに非ず。此の戦いは、禁裏より任された治世を平氏が、一門の為だけに勝手に執り仕切った所以である。そして何よりも神器と御帝のお命を、手中の玉として我が者顔に振る舞う平氏の不遜から主上を、お助けせんが為に我等は戦うのである。」
義経の熱弁に源氏の若武者、老武者も各々発奮した事は云う迄も無かった。

当の義経は自分が何者なのか時々判らなくなった。
最近は或事情から人前では顔を被って、暮らさねばならない。其れが自分か。人目を忍んで自分に返る今の自分が、本当の自分か。不思議な事に時として、自分が別の人格に支配された様な気がする事もある。
先程もそうであったが、偽物の自分に、本物の自分の魂が天下った様に、意外な強き言葉を語る事がある。
それは源氏の祖霊なのであろうか、将軍義経の霊なのか。
兎も角自分は、精一杯其れを演じようと思った。
大それた事は考えない。只自分は自分に忠誠を尽そうと。

仲間が居るとは云え、過去の自分に比して、半ば隠者の様な境涯になった義経は、取りあえず奥州の地を目指したが、京に置いて来た想いの人を尋ね、一旦詫びと別れをして行く事にした。
七名の山伏の姿も、相当板に付いて来た頃、京の嵐山にある、一軒の茶店で休息していた。
以前に比べて大分穏やかな都に還って来た様子が、其処此処に伺われた。
まさかこの茶店に佇む山伏達が、天下を震撼させた主従であると、誰が想像するであろう。
茶屋の傍らで通りを行き交う人々を、ぼんやり眺めていた九郎に、何やら覚えのある人物が近付いて来た。
視線に気が付いて、くるりと後ろを向いた義経に、其の男は小さく声を掛けた。
僧形の男であるが、九郎に顔を近付けると、にやり、と笑うと小声で、「九郎さま、私でござりまする。」
表を振り返った義経は驚いた。
「おおっ、そなたは熊谷殿、是は寄寓でござる。」
その男は正しく熊谷次郎直実その人であった。
市の谷の合戦で、平家の敦盛と戦った人物であった。敦盛の最後の哀れさ、そして世の無常さに、出家していたのである。
「おおっ、御無事で。人中につき多言はご無用。私は今、黒谷の法然様の元へ通い、貴い御教えを頂いて居りまする。宜しかったら、師へ御紹介致しまする。」
義経は誠意を感じつつも礼儀を尽し辞退した。では、恙無くと共に別れた。小半時もした頃であろうか。早朝からおせんの様子を伺いに、出かけていた大庭が帰って来た。
「殿、おせん様は、今保津川の牧舎にはご不在です。」
「なんと、そうであったか。留守が長かったからのう。」
「馬喰の銀太が申すに、おせん様より、殿が見えたら伝えよと便りを預かって参りました。」
おせんは、今年春、髪を下ろして仏門に入ったとの事。
「庵の所在は聞いて参りました。鞍馬の山懐の里にお出でで。」
「ご苦労であった。そうか仏門に入って居ったか。」
何かしら不憫に思えて目頭を熱くした義経である。

鞍馬の麓に小さな庵があった。最近になって保津川の方から出て来て、鞍馬の蓮尼庵で得度、受戒を受けた女性が居た。
千尼と云う波瀾の人生、其の人である。
生き物が大好きで、庵にやって来る鳥獣が、良く懐く程である。
毎日早朝からの勤行を修め、掃除朝食が済むと庵の裏庭に出て、栗鼠や、兎、小鳥等に残り物を与えたりするのが日課であった。
残り物と云っても、庵の生活からは僅かしか出ないが、其れでも彼女と気持ちが通ずるのか、良くやって来る。
今日も日課が一段落すると、裏庭にでた。
「ほほほっ。」突然の事に彼女は、泣き笑いで蹲った。
小鳥達も突然の事で、蜘蛛の子の様に飛び去った。
彼女は肩を震わして泣き出した。其の小さな肩に手を優しく、差し伸べた人が居た。
おせんは、蹲ったまま、「殿様、申し訳ございません。」
「待つ事が私の心の支えでした。毎日夢の中にお出での殿様の御姿が、或日突然お見えにならなくなり、是は不吉な知らせと、只その後は貴方様の事を神仏に祈り続ける毎日でございました。」
「私は木曽の巴様にはなれません。」
「そうか、おせんは、同じ女傑でも、心根が巴殿とは、ちと違う。また儂はそんな事を、お前には望んで居らん。」
「しかし、苦労を掛けたな、おせん。」
又、優しく両肩を抱いた。
「しかし、儂はそなたに詫びねばならぬ。儂は、今武士を捨てて居る。位階も何も無い。一介の世捨て人じゃ。おせんを幸せにする筈じゃったが最早それは叶わぬ。」
「はい。では、是からは。」
「東国。奥州平泉へ参って、藤原氏を尋ね、仏国土を創る手伝いをしたい。」
「奥州ですって。私も付いて参りとうございます。」
「はっはっはっは。儂は当然の事乍ら、天下のお尋ね者じゃ。今に鎌倉殿より、裏切り者、武士の風上にも置けぬ者。と云う事で相当熾烈な追っ手が参る筈。そちには此の京で、御仏のお弟子として、達者で暮らし。ゆっくり儂の菩提でも弔って居て欲しい。」
一時、愕然とし、項垂れたものの、元々気丈なおせんは、きっと九郎の顔を見据えると応えた。
「承知致しました。でも殿様の大願の果たせる日を、命懸けで御仏に祈りまする。」
「忝い。」九郎は上を向くと大粒の涙を、頻りに堪えて居るのだった。

驕る平家は久しからずとか。
治承四年源氏の旗揚げ以来、衰退の道を歩み続けた。
文治元年二十年の栄華は幕を閉じたのである。
平家追討の立て役者、九郎義経であったが、武家の頭領の家柄に生を受け、やがては兄頼朝公の、王道布設の為に先頭を切って木曽軍、平家の大軍勢を相手に戦線の日々であった。
が、修羅の世界を厭い、より人らしく生きる為鉾を捨て、市井に帰った。
しかし、是は到底、時代の趨勢から見ても許される事では無かった。梶原の讒言もあり、九郎謀反と聞けば、兄頼朝も逃げる訳には行かなかった。
壇の浦以後、大将義経の替え玉も、遂には身元が割れ、影の武将義経は遠く喜界ガ島へ流罪となった。

京の都は夜半より、久々の大風が吹き荒れ、家々の戸も固く閉ざされていた。
京の街中は義経探査の侍達が、東西を駆け回って居た。
そんな時、法皇のおわします御所の戸を、ほとほと叩く者がいた。門番の者が不振に思い、戸越しに訪ねると、
「お上に御用でございます。故あって此処で名乗りは出来申されぬが、今生の暇乞いでござる故、何卒お取り継ぎを。」と云う。
早速法皇の御寝間に、お伺い申し上げると。
「九郎に相違無い。内々にて中庭に通せ。」
との思し召しであった。
九郎はひたすら、身の不徳のみを詫び、暇乞いを伸べた。
法皇その誠意に痛く心を打たれ、形見の品を賜った。
「では、お上に置かれましては、恙無くお暮らしを。」
義経は身を翻して闇の中へ去った。
掌中の宝を失った法皇は寂しげに、お居間に籠られた。
都にはもう心残りは無いと、義経主従は京の都を去った。
一行は若狭の国の敦賀を目指した。
敦賀には吉次の忘れ形見、吉三郎が待って居た。
吉三郎は、おせんの後見として、余程の場合には、おせんの身を守護する事を申し出てくれた。
主従は夜半の闇にまぎれて、若狭の海を北上し、出羽の国の最上川下流の酒田から上陸する考えであった。
全て今は亡き吉次が生前より、最悪の場合の最善策を考えて、吉三郎に託しておいた手筈であった。
「吉三郎殿。父君、吉次殿より二代に渡る変わらぬ忠誠心。九郎、心より痛み入る。」
そっと、懐から形見の品を手渡して、礼を尽す九郎であった。

「梶原殿は居るか。」
鎌倉の頼朝の執務室へ、梶原が呼ばれた。
先夜平家追討の祝賀を終えたばかりであった。
梶原は頼朝の呼出しを受けて、一瞬冷水をかけられた様な、不快な戦慄を覚えた。
あの義経のお目付役を命じられた時から、今日迄の永い記憶が一瞬の間に思い出された。
「さて、今日のお呼びは何のお咎めか。」
自分としては何物も後ろめたい事は無いのであるが、人の価値観は様々である。毀誉褒貶あい半ばすると云う。人生何となろうとも如何し難いものである。梶原は心を落ち着かせ、頼朝の御前へ出た。「梶原、只今参上致しました。」
「平家の追討、ご苦労であった。褒美として…。あれを持って参れ。」「褒美として技の物、一振り遣わそう。」
頼朝は複雑な苦笑を、口元に微かに浮かべた。
「誠に相済まぬ、過日、九郎の目付けを命じた。此の度、九郎の奇怪な言動、振舞い、我等源氏の仕置きとして、誠に許し難い事である。梶原殿の忠誠を見込んで、大義ではあるが義経の追討を申し付ける。」
梶原は又、気の重い役割を命じられたものだと思った。
元々平氏の家柄に生まれた梶原であったが、頼朝旗揚げ後に頼朝の窮地を救った事が、源氏方へ転じた機縁であった。
源氏同士が追いつ、追われつの混乱した時代、梶原の存在が頼朝にとっては、頼み難い事ではあるが、好都合な存在であった。
梶原は判っていた。
それは頼朝の自分に対する信頼は、依然変わっていないであろうが、源氏方で自分の主流に対する関わり方が、そして自分の考えが相当反目を買っている事を。
是で自分の半生。
其の晩年の行く末が目に見えて来た事を。
武運ならば、是からの生き死にも、武辺者としては如何であろうとも只進むまで。
頼朝は梶原の返事を、辛抱強くじっと見守っていた。
やや、あって梶原は力強く、
「確かにお受け致し仕ります。源氏の者として、殿の信頼裏切らぬ様、其の御恩に報じ奉りまする。」
頼朝は、嬉しい様な悲しい様な、不思議な表情をして居た。
梶原は突然突っ伏して、
「殿。御心中を、お察し致しまする。」
と絞る様な声で云った。
頼朝はそっと、顔を背けほろほろと、流れる涙を堪えて居た。

秋ともなると日本海の海は非常に荒れた。
義経達の乗った船は商船であったが北前船が盛んになる以前の事、航路も未だ定かではなかった様である。
加賀、輪島、柏崎、新潟等を経由して北上した。
輪島の浜に着いた日の夕刻、地元の商家に一泊して、暖を取って居ると、宿の主人から回状が届いていると云う。
北陸道方面にも、源氏の探査が及んでいる訳である。
「む。油断のならぬ事だわい。一休み入れたい処なれど、明朝未明の出発じゃ。」
「承知致しました。」
その日の深夜、弁慶がうつらうつら寝ずの番をしていると、宿の下男が至急との事で知らせに来た。
「お客様お目覚めでしょうか。今、知合いの者から、知らせがありまして、源氏のお役人様が、見慣れぬ旅人を、取り調べに来ているそうでございます。家の主人が探りを入れて居りまして、早うお逃げなさいとの事です。」
「船はお約束通り、直ぐ立てる様、船頭が仕度を済ませて居ります。」「忝ない。おい、皆の者。出立ぞ。」
早暁なので屋外は未だ真っ暗闇である。
杉林がごうごうと、唸りを上げていた。
空には月が煌々と冴え渡って居た。
其の月明かりを頼りに、主従は宿舎を後にした。
細い坂道を下って行くと、濃紺の空の向こうに、海が白く鈍く光っていた。
遥か背後で松明が、ちらちらと点り乍ら、暗がりに光る蜘蛛の糸の様にゆっくりと近付いて来た。
「おうっ。お客人の皆様、早うお出でなせい。」
一声掛けると、船頭は無駄口を叩かずに、てきぱきと船を動かし始めた。
吉次の遺志は、配下に未だ生きて居た。
此の荒波と強風に乗り出す無鉄砲さは、事情はさる事乍ら、九郎ならではである。
岸辺は瞬く間に遠のき、出遅れた追っ手が悔しさ紛れに、弓を射て来たが、最早届かぬ船足であった。
大風を受けて船は、何度も沈みかけては助かり、危うい危機をようよう脱した。
船は疾風の様に走り、出羽の酒田沖合いへ着いた。

酒田の沖合いに着いた義経達一行は呆然とした。
夜半岸に近付こうとすると、酒田の街が万灯に輝いていた。
「はて、この時分街は寝静まって居る筈だが。」
「殿あれは恐らく我々主従の追っ手でございましょう。」
「うむ。帆を揚げるな。未だ向こうは、こちらに気付かぬかも知れぬ。此の侭風と流れに乗って北上しよう。」
静かに光を放つ街に、一瞥をくれて一向の船は更に北上した。
やがて海は大荒れに荒れ、数里も進まぬ内に押し戻されてしまった。最早此の侭酒田に上陸するしか無かろう。
「皆の者、如何しよう。」
皆押し黙った。目の前には赤々と万灯の光が待って居る。
すると誰かが云った。
「生きるも、死すとも殿と一つでござる。我等に昨日はござらん。明日への苦難が何であろうと、共に受けん。」
「良く云った。行くぞ弁慶。」
その一人一人の顔に失望の影は、微塵も無かった。
はっと、我に返ると目の前にその明るい表情が見える。
それは冒険心と、勇気と、情熱で誰にも負けをとらない主人、義経の目の輝きであった。
「命運は我に下った。只前進あるのみ。」
その目に迷いは無かった。
「行きまするぞ、何処へでも。野を越え、山を越え、火の山、針の山でも厭いはせぬ。」
その主従の一体感こそ、他の武将達が妬ましい程、憧れる人間関係の華かも知れない。

何物も恐れず、突き進む前に敵は無い。明るく輝く朝日を浴びて、白幡をなびかせる姿こそ、義経には似合っている。

戦乱の巷に生を受け、家族の愛情に恵まれなかった義経であった。武芸を極める厳しい運命を受け、其の中で豊かな人間性溢れた青年に育った彼である。
歳と共に人生に安らぎ平穏を願い、無常修羅の世界に埋没する事を、本当は厭うた一人であったと思う。
泰平を願う心と忠誠を尽す事の狭間に、人として相容れない葛藤は存在するが、その苦しみ悲しみの奥に、泰平成就の為の聖なる道は存在する事と信ずる。
人の世の儚さ故、人生劇を呆気無く退場する役柄も多いが、その寸暇の中にその人物の全てが生きていると思う。
盛衰記登場の人物群は、一人一人その葛藤の中に生き、人生の華を開花させたのであって、一人として無駄花は無いと信じたい。

大将源九郎義経 其の壮烈な人生の充足感は、主従であり、或ときは又、師であり友人であった弁慶始め、多くの仲間達の信義故のものであろう。その豊かな人間性はおせんはじめ、互いに人も動物もいとおしむ、深い愛情が源であろう。その後の彼等の人生は、あまりにも遥か昔の事にして、詮索し難い事なので何れ何かの折りに、探究し続けるのも一興かもしれない。
時代を創る背景として頼朝、梶原、吉次、他にも星の数程多くの人間がロマンを織り成す。その一人一人にはっきりとした人生観、人間観、が存在する。梶原等も或見方からすれば、当時の武将らの嫌われ者かも知れない。又頼朝は非常に冷酷な人物と捉えられる向きも有る様だ。しかしその一人一人、膝を交えて語り合ったら、又世の中の面白さ、人間の面白さが判ると思う。甚だ蛇足気味であるので、此処までとしたい。

平成十二年四月九日

                         完

「その後の九郎話」

義経主従は源氏本隊の追跡を逃れる術を失い、捕縛の縄につく潔い覚悟を定めた時、主従各々の心の中には、不思議な程の解放感に満たされた様で有る。すると小船の背後からは、押し出す様に風が吹き、酒田の港の方へと引き寄せられるのであった。
「ふっはっはっ。不思議なものよのう。
逃れんとすれば、引き寄せられ。進まんとすれば、押し出されよるは。」
此処にも人生の不思議で、皮肉な現象が作用するらしい。
「おおっ。あれは梶原軍の面々よの。」
義経主従の潔さに剛勇で鳴らした源氏の追手も、肅然として頭を下げて彼等を迎え入れた。
「これは、これは。ご苦労でござった。」
剽軽な弁慶が皮肉めいた挨拶をかけると。
「なんの。お志し半ばで追手に掛かられる。……誠、同じ源氏武者として心苦しゅうござる。…むっ。」
一歩前に立って主従を迎える、さすがの梶原も真っ赤な顔を、半ば伏せ気味で指揮を執っていた。
傍らの鎧武者が、
「九郎殿。……」
「泣くな、定めじゃ。」
追手の中に涙する者も少なくなかった。

地元の名主の屋敷を仮の陣屋として借り受け、主従の問責を行う予定らしい。
主従は陣屋の広間へと引き連れられた。一般の兵士達は、極力屋敷からは離れた場所に遠ざけられ控えていた。
一同、入室すると正面に梶原が居た。
すると梶原は怪訝な顔をすると、捕縛の小者達に訪ねた。
「これ、此の者達は何奴じゃ。」
一瞬室内はどよめいた。
「殿。此処は裁きの庭にござりまする。」
「馬鹿者。其の様な事、分かって居る。じゃから、此の者達は何故此処に、引っ立てられて居るのじゃ。」
「はっ。」
側近の者達は、真意を汲み兼ねて狼狽えた。
「儂はもう、疲れた。」
「此のお方は先の源家の御大将…。」
「だまれっ。此処に居るのは僧形の者達じゃ。」
「儂は娑婆の科人を裁く身じゃが、仏徒を裁く術を、儂は知らんぞ。」耳を疑るのは小者ばかりでは無かった。
「梶原殿。お志は有り難いが、我等は罪ある身、潔くお縄に捕いたのも、何れ良く良く思案の上。」
「なんの。儂は仏徒ずれに顔馴染みは居らん。御仏の弟子ならば、御仏の宿願に応えられよ。儂は、頼朝公の捕縛の任を未熟にも、しくじり居った様じゃ。みんな仕舞いじゃ。」
先程から眼を閉じた侭であった義経は、やおら座を正すと。
「梶原殿、相済まぬ。」
「むっははっっ。」
「儂は聾になったわい。最早何も聞こえぬわい。」
梶原は小者達を引き連れると、奥の寝間へ帰って行った。
やがて、心利いたる小者が数名やって来ると。
「御坊殿。主より粗飯の布施でござる。」
主従は夜遅く、二日振りの食を喫した。
夢うつつの中、馬の蹄の音やら、武具の擦れ合う音、その音に驚き目を醒ます烏の羽音や、鳴き声も聞こえた様な気がした。
やがて深い霧が、陽光に照らされて晴れ渡って来た。長閑に鶏の時を告げる鳴き声も聞こえて来た。
梶原軍は一夜の内に消え去って居た。
「見事じゃ。好かん奴じゃったが。」何時の間にか起き出していた弁慶がしんみりと云った。

半僧半俗態の義経は強いて名を変えようと思わなかった。
七人の山伏姿の男達一行は、或時は托鉢を、又方々で勧進を努めて、奥州平泉へ向かった。
陽がとっぷりと暮れた或日、山間の集落で宿を借りる事となった。山道で出会った樵に訪ねて、集落の長の家を教えてもらったのであった。
「忝のうござる。」
「いえいえ、何もござらぬ賎ヶ家でござる。」
其の時義経は主の、ただならぬ気品に気が付いた。「時に主殿。失礼でござるが、貴方様の身なりに似合い申さぬ、立ち居振舞い。物言いに都人の風雅を観て取れ申す。」一瞬手を止めた主は、
「はっはっ。…皆様御坊の方々も、一角の修行僧とは思われませぬ。語らぬが花と申します。未だ人としての修行が足りぬらしいですな。」じっと考え込んだ弁慶が、
「もし、主は元はと申せば平氏でおいでか。」
矢張り知れてしまったかと云いた気に、
「源氏の御大将と観たが如何か。」その眼は異様にぎらりと光った。
「そう、と答えれば何とされ申す。」義経は凛とした声で静かに云い放った。
斯様な事も何れはあろうと、覚悟はしていたまでであった。
主はかっと眼を開くと。
「恩讐は、恩讐は忘却の谷底へ捨て申した。……しかし、未練は断ち切れずに居る。」
「はっはっはっはっは。弱い物でござるな。人とは。ふはっはっはっ。」
「そうでござったか。」
「聞かいで良いものを。…」
義経は眼に光る物をにじませて、詮索の過ちを悔いた。
「強いて御尊名は承らずにおこう。御坊、しかし白幡の御大将に、お一方おざった。情けの分かる御方が。」
「九郎とか申すお方、我々平氏にとって、悪逆非道と観ゆれども、屋島の戦の折には、その恩讐を越えて、我々平氏の御霊も共に祭られて下さったそうな。」思わぬ主の話に一同言葉も無く、其の場は暫く沈黙と化した。
奥州の鄙びた地で此の様な出合いが、まさかに有ろう事かと、皆不思議がった。

奥州の山並は薄紫色に霞み、遠く蔵王が白く薄化粧を見せている。時々吹く風が凍てつきながらも、春めいた陽光が振り注いでいる。
身体の芯から疼く様な活力が湧いて来る気がする陽気であった。
なだらかな丘を越えて一本の小道がゆるゆると続いている。
遠くから、近くから小鳥のさえずる声。近くの薮からは、山鳥の重苦しい鳴き声が聞こえて来る。
小道は途中で小さな清流を渡り、切り通しを抜けると、広々とした原野が続いていた。
今二人の男が汗を拭き拭き、坂を越えて歩いて来る。此の原野へ差し掛かると、修行僧らしい小柄で端正な姿の男が、「おやっ。」と遠くへと眼を向けた。
ほっと微笑む顔の先には、数十頭の馬が群れて居た。此処は人里離れた馬場であった。
其処、此処で馬の糞の匂いが漂っている。
「ふはははっ。馬か、懐かしいのう。」
「心が踊る様でございましょう。」
大男の方が笑いながら云った。
馬の群れの先には数棟の小屋があった。
小柄で端正な方の僧が、何とはなしに小屋へ近付くと、近くの畑で野良仕事をしていた年増の女が一人近付いて来た。
すると女は突然足を止めると、呆然と跪いてしまった。男の方も逸早く気付くと、思わず駆け寄った。「おせん。済まぬ。」
「此処に居ったか。」
大男は勿論弁慶であったろう。
既に気を利かして、遥か遠くへ引き下がっていた。
「弁慶済まぬ。」
固く二人は手を執り合った。
馬場の馬達が何事かと、こちらをじっと眺めて居た。
暫しの無沙汰に、悔恨の涙を堪え切れずに流す二人に、冷たい風も快く吹き付けた。
今や伝説となりつつあった、華々しい源平の合戦の数々も過去のものである。
「くっくっく。」義経は泣き笑いの中、
「又々、馬の世話か。ようよう好きじゃの。」
「ほほほっ。だって、殿様。他に何がございます。」
「源氏の御大将も形無しじゃ。」
「矢張り、馬子のおせんに、お数珠は似合いませんわ。」
「そりゃ、そうじゃ。」
「はっはっは。」
「ほっほほっ。」
波瀾に明け暮れた九郎にとって久方に平穏な、麗らかな日であった。
海外旅行保険の加入はコチラ! 過払い金の回収ならこちら そろそろ結婚適齢期???

[PR] | 店舗設計韓国食材債務整理川越蒲田古河代官山ESTA 申請 日本語中国SEO対策消費者金融車 買取テンプレート沖縄旅行免許合宿二輪引越しプレゼントゴルフ会員権留学レーシックマッサージFXアフィリエイトFXホームページ制作デイトレードハワイ旅行タイバンコクハワイ レンタカーベスト ハワイ ホテル レーツバリ島Hawaii hotelsHawaii Activitiesbhhrハワイホテルテキスト広告
【運営会社「パラダイムシフト」サービス】 ハワイ現地オプショナルツアーリラックマ) - ビジネスクラス航空券 - 格安航空券(1) - 格安航空券(2) - 海外ホテル - 韓国旅行 - タイムシェア - ホテル 予約
無料ホームページ - 携帯ホームページ - 無料ホームページ作成 - レンタルサーバー - ブログ - ヴィラ - ハワイ コンドミニアム - バリ島 ホテル - プーケット ホテル - レップチェッカー - 旅行情報 - 格安国際電話 - ホノルルマラソン - サイトパトロール - 誹謗中傷 - 宿泊料金比較 - ノースウエスト航空 マイル - クチコミ